ノータイトルストーリー
第7章『名前のない物語』
それは、突然の出来事であった。

突発的あるいは発作的に引き起こされたかのように、台所の窓ガラスは大きな音を立て、弾け飛んだ。

割れた窓ガラスから腕が中へ伸びガサガサと鍵を探す。

その腕は切り裂かれ、血がその腕からはダラダラと流れている。

私の頭へは血が大量に流れ込み、瞳孔が開き、怒りで体が震える。

皮肉な事に何年振りだろうか、その場には、奇しくも家族が全員が集まっていた。

そんな事を思いながらも、私は大きな声で腕の持ち主を怒鳴りつけた。

何が起きたのか飲み込めず、康恵は怯えている。

恵美は冷ややかな表情で血を見て「汚い…」とだけ呟いてスタスタと二階へと上がって行った。

やがて、その血だらけの手は鍵を開けた。

「はぁはぁ…」と肩で息をする、晴彦が家の中へと強引に押し入ってきた。

その瞬間、私は拳握ると思い切り振りかぶり、力一杯、その腕を振り晴彦の顔面へと叩きつけた。

晴彦はその場に倒れ込み、起きあがると血だらけになり、奇声を発して向かってきた。

私もそれに向かって床を蹴って向かっていく。

それまで、黙っていた基がさっと間に割って入ると怒号を上げた。

「これ以上やるならどっちも殺して俺も死ぬ!」

康恵は声を上げて泣き出し、その場にへたり込んでいる。

私は少しおののき、歩を止める。

しかし、発狂した晴彦は止まらなかった…基がそれに立ち向かう。

組み合った瞬間、静かに「兄貴…血が出てんじゃん、もう止めろよ」と呟いた。

しかし、もはやその声は届いてはいなかった。

基は淡々と晴彦を組伏せる。

晴彦は押さえ込まれても尚、「うがぁぁ」と大声で叫び、バタバタと暴れる。

基は何かを呟いた。

よく聞き取れなかったが「兄貴…ごめん…」と恐らく呟いたのだろう。

首に絡まっていた腕にグッと力が入ったかと思うと、その次の瞬間、暴れていた腕が糸の切れた人形のようにパタンと床に落ち、辺りを静寂と康恵の啜り泣く声だけが包んだ…


目の前で何が起こっているのか理解できなかった。

突然、窓ガラスが割れたかと思えば、晴彦が血だらけになり、家の中に押し入って来た。

私は何も出来ず、主人が怖い顔をして睨み付け、晴彦を叩いた。

晴彦は大きな叫び声とともに飛びかかり、いつかのように基が間に入った。

その時、基もとても怖い顔して、大きな怒鳴り声を上げた。

主人はハッとしたように足を止める。

私はこの場所にいるということ。

目の前で起こることの全てが恐ろしかった。

そして、とても悲しくて涙が溢れ出て止まらなくなっていた。

妻としてまたは2人の母としてそれはすべき事でない恥ずべき行為なのは分かっている。

しかし、出来るならばこの場所から消えてなくなりたい、もしくは逃げ出してしまいたいといみじくも思った…

そんな事を思っている内に、間に入った基に向かって晴彦が飛びかかった。

それなのに、基は冷静に淡々と晴彦に何かを呟いている。

その冷静さが怖かった…その時、何故か基はとても優しい顔をしていた。

しかし、まるで血の通っていない機械のように対峙し組み合った。

私は心の中で「もうお願いだから止めて!」と叫んだ。

しかし、そんな思いは2人に届くはずもなく、基は晴彦を組伏せた。

晴彦はなおも獣のように、暴れようとして体を捻らせ、奇声を上げ、腕をバタつかせている。

それを基はしっかりと抑え込んでいる。

その最中また何かを晴彦に呟いた。

そして、晴彦が崩れ落ちてピクリとも動かなくなってしまった。

まさか…基が晴彦を殺してしまった?

何故?どうしてこんな事になってしまったの?

お腹を痛めて生んだ自分の子供達がこんな事になってしまうなんて…

頭の中が真っ白になり、胸に大きな穴が開いてしまったようだ。

その中から悲しみが溢れ出てそれが涙へと変わり頬を伝う。

悲しみ、不安、恐怖が私を包み込む。

とにかく、胸が苦しくて苦しくて、もうどうしていいのか分からなかった…


騒ぎが収まったが、それでも母は泣き止まない。

僕が兄を殺してしまったと勘違いしているようだ。

ただ少し、眠らせただけだと慌てて説明するが、分かってもらえない。

取り敢えず、腕の血を止めるのに、消毒駅とガーゼ、包帯を持ってくるように言う。

すると、涙を拭き鼻を啜りながら、無言で頷き、その場を離れる。

父は「そんなことしてやる必要はない!例え、このままおっ死んでも構わん。知ったことか!」と一喝する。

「いっそのことトドメを刺して全ての罪を俺が被ちゃる」と続けた。

ガラッと引き出しを開け、果物ナイフを取り出した。

そして、それを握り締めそう断言した。

「そんな事は言うな!!」と僕は言ったと思う。

何故なら本心ではなく、怒りによってまだ父も我を忘れてしまっているのだと思ったからだ。

もし例え、その時の父の本心がそうであったかも知れない。

しかし、根が優しくクソが付くほど正直で真面目な父の事だ、一生後悔するに決まっている。

ましてや、後悔するだけならまだしも、その場で首を掻っ斬り、自ら命を断ちかねないと思った。

だから、絶対にそんな事はさせる訳にはいかない。

必死で父をなだめ、その手から果物ナイフを引き剥がす。

母が救急箱を持ってパタパタと帰ってくる。

「これで平気?」

「うん、大丈夫だよ」と応えると少し安心したような顔をした。

そんな顔を見たら、気が付くと僕の目からも涙が流れていた。

どこか痛い訳でも、悲しい訳でもなく、原因不明の涙が…


私の中で晴彦と言う人間は、家族ではないと思っている。

むしろ、己の欲望に飲み込まれ、堕落し、腐り、人間ですらない。

今日の出来事も結局は自分の欲望の果てに暴走した。

そして、歯止めが効かなくなり、発狂したのは目に見えている。

その姿も声も存在、流れている血ですら穢れている。

同じ血が流れていると思うだけで嫌悪感、社会に対する負い目、劣等感すら感じられた。

私にとって、晴彦とはそんな存在なのだ。

いっそのこと死んでしまえば良いと本心からそう思う。

例え、この先、今までの事を悔い改め、改心したとしても私は許さないだろう。

そして、私は拒絶し続けるだろう。

自分の部屋へ戻り、一階から聞こえる声や音も全てを遮断すべく、ヘッドホンをし、音楽を流す。

それでも、なお聞こえてくる耳障りな雑音が私を苛立たせる。

私はボリュームを上げて、それを何とかかき消した。

そして、目を瞑り、ギリギリと歯を食いしばり、顔を手で覆う。

ロヒプノールやらハルシオンと言った睡眠薬の類でも飲ませて事故に見せかけて殺してしまえば…などという衝動に駆られる。

しかし、クズの為にそんな事をして何になる?

春海ちゃんは喜ばないと言い聞かせる。

私はどうすれば良いのだろうか?

ねぇ誰か教えてよ…教えてよ…


ビクビクと怯えながら、公園を後にする。

ここも安全ではない。

誰か遠くから監視しているに違いない。

フラフラと街をさまようが安全な所など何処にも無いように思えた。

街ですれ違う人全てが、俺を射るよう見ている気がしてならない。

もしかするとすれ違う人自体存在していないのかも知れない…

杖を突き、ヨタヨタと歩く頭に包帯を巻きつけた釘の刺さっている老人とすれ違う。

真っ黒な蟻の顔をした羽根生えた虫人間も全て幻に違いないのだろうか?

しかし、俺にはそれが見えている。

もしかすると、平行する無数の道の一つに迷い込んでしまったのかも知れない。

平行する世界…俗にいう、パラレルワールドと言うやつにだ…

何処へ逃げても同じだと分かっていた。

しかし、救ってくれる微かな期待もあったのかもしれない。

はたまた、クスリ欲しさに金を毟り取ろうと考えたのかもしれない。

よく覚えていないが、その足は確実に実家へと向かっていた。

ドアを叩いても何も反応がない。

迫り来る恐怖と沸き上がる苛立ちから台所へ回り、窓ガラスを叩き割る。

腕を中に伸ばし、開けようとするが、なかなか見つからず、腕に痛みが走る。

しかし、迫る恐怖に比べればこんなもの気にもならなかった。

中に入るとそこには父がいた。

突然の怒鳴り声の後に、気が付くと父の拳が左の頬にめり込みんだ。

その勢いで倒れ込む、状況が分からないが怒りだけが噴き上がり、向かっていく。

すると、何故かいない筈の基が間に入ってきた。

益々、状況が分からなくなりパニックになる。

そして、基は俺を取り押さえる。

なんだ…結局、全て俺が悪いのか…

そんな分かっていた…しかし、何だかとても悲しくなり、そしてそれが更に怒りへと変わる。

基は何かを言ったが、キンキンと耳なりがヒドく聞き取れなかった。

そして次の瞬間、息が出来なくなり、目の前が真っ暗になって意識は沈んでいった。

俺の意識は何処へ行ったのだろう…

落ちていく下へ下へと…夜も意識と共に同じく落ちて行く。


また夜がゆっくりとした沈黙の中、二人の間にも訪れている。

隣の部屋からはテレビの音だろうか、ステレオの音だろうか?

何やら音楽のようなものが聞こえてくる。

すると彼女は重い口を開いた…

「実は私ね…ずっと隠してた事があるの…」

彼女は全てを話してくれた。

先日のデートに来れなかった事、昔のそういうなれば若気のいたりと言うのだろうか…

それらを全て俺に話して聞かせてくれた。

いや、むしろ正確には『託した』のかも知れない。

「こんな私でも好きでいてくれますか?」

「愛してくれますか?」いや「愛せますか?」と。

俺は急な出来事に内容にかなり動揺した。

正直、戸惑った…

それでも、答えは揺るがなかった。

例え、彼女が人殺しであっても愛すると決めていたからだ。

俺のすべき行動は一つに決まっていた。

彼女を「ギュッ」と抱きしめ「愛してる、大丈夫だよ」と言ったと思う。

端から見れば、正直、言ってかなり恥ずかしい事をその時の俺はサラッとやってのけた。

自分でも恥ずかしくって耳が熱くなっていた。

多分、顔全体が猿のお尻より今朝、藤井さんについた嘘よりも真っ赤に燃えていたはずだ。

俺は今、自分自身のそして彼女の人生の岐路に立っている。

目の前には、矢印の看板が2つ並んでいる。

一つは『ハッピーエンド』、もう一つは『バッドエンド』と書きなぐられている。

今の俺の選択はどちらへ歩を進めたのかは今は分からない。

ただ、何となく良い予感はしている。

その直感を信じるしかなかった。
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