結婚白書Ⅳ 【風のプリズム】

 大事なこと



僕を呼ぶ声に振り返ると 葉月らしい姿がぼんやりと見えたような気がした


……お兄ちゃん お兄ちゃん……


何度も何度も呼んでくれるのに 思うように声がでず返事が出来なかった

駆け寄って行こうとするが 足が前にでない

苛立って叫んだつもりだったが やはり声になってはいなかった


ふと手のひらに温かさを感じた

まるで手を繋いでいるような心地良さだ

時には甲をなで 両手で包み込んでくれる手を握り返したいのに 

どうしても出来ない

この手は実咲だ 実咲の柔らかく小さな手だ

嫌いなんて言っておきながら やっぱり戻ってきたんだな……





暗闇から抜け出して 微かな光を感じ目を開けると 蛍光灯の灯りが目に入り 

眩しくてすぐに目を閉じた

今度は薄く瞼を開けながら さっきよりゆっくり目を開けてみた

蛍光灯の光が見えるかと思っていたら 葉月の顔が目の前に現れて 

とっさに目を閉じた



「お兄ちゃん 目を開けて お兄ちゃん!」


「賢吾 わかる? 賢吾!」



頭の上で 聞きなれた声が交互に掛けられていた

そんなに大声で叫ぶなと言いたいのに どうしたことか僕の喉は声を出すのを

拒むように 一言も発することが出来なかった

返事の変わりに もう一度目を開け葉月の顔をじっと見た



「あっ! 目を開けた お父さんを呼んでくる!」



バタバタと駆け出す足音と振動が 動かない頭に響き鈍痛がしたが 

葉月に変わって目の前に現れた 

実咲の泣き出しそうな顔を見て 記憶が途切れる前のことを思い出した

バイクにぶつかったんだった……

壁や天井の無機質な様子に ここが病室であることがわかり ようやく

自分の状況を把握した



「目を覚ましたね……あのままだったら 私……」



顔をくしゃくしゃにさせて泣き出した実咲に 手を伸ばそうとベッドの中で

指を動かしてみた

声は出ないが手が動くようだ 

モソモソと指を動かしていると 廊下から靴音がし 複数の人がやってくる

気配がした

また頭痛がしたが 父の顔や東京の祖父母の顔が見えて 目を閉じるのを

やめた



「賢吾 私がわかる?」



祖母の呼びかけになんとか頭を動かすと みなの泣き笑いの歓声に迎えられた




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