結婚白書Ⅳ 【風のプリズム】
3.空の章

 春の出来事



松葉杖というのは 思いのほか不便なものだった

部屋の中では踵(かかと)を支えに歩けるが 外出時にはそうもいかず 

まるで重症患者のような格好が気に入らなかったが 杖を使うほかなかった


たまには外で会おうと実咲に誘われ 慣れない松葉杖でマンション近くを歩いた

その日は近くの公園まで行こうと おぼつかない足取りで歩いていると 

途中 後ろから来たバイクが 

僕らを追い越したとたん 実咲の顔が強張り 僕の手を掴んできた



「ごめん……バイクの音を聞くと思い出すの」


「怖い思いをさせたんだ……」


「賢吾のせいじゃない」



申し訳なさそうに実咲が首を振って 掴んでいた僕の腕をギュッと握り締めた

実咲が自分のせいで 僕に怪我をさせてしまったと思っているのはわかっていた

心に残ってしまった恐怖は簡単には消せないだろうが 実咲が僕を見て

事件を思い出さないように 早く怪我を治し 実咲が怯えるようなことがあれば

すぐに手を握ってやれるようにしたい 

僕にはそんなことしか出来ないが 実咲の支えになりたいと強く思った

それは 事故の責任からではなく 僕自身の彼女への想いがそうさせるのだった
 


大学の帰りだったり バイトに行く前だったりと 時刻はまちまちだったが 

実咲は毎日のように顔を見せてくれた

学内やサークルの話題に限らず 身の周りに起こった何気ないことを

話してくれる

実咲の部屋の近くに住みついて たまにベランダに顔を見せていた猫が

子どもを産んだとか 

道路工事で回り道をしたら アンティークショップを見つけたから

今度一緒に行こうとか 

街路樹の蕾が膨らんでいるよ なんてことまで 外出が面倒で部屋で

じっとしていることの多い僕が 知ることのできないことを話して 

おしゃべりで季節までも運んできてくれた





午後から休講になり昼過ぎにやってきた実咲と 珍しく二人っきりになった

朋代さんは用事があるらしく 留守番を頼まれたのだが 



「3時過ぎに葉月が帰ってくるの 玄関の鍵を開けてね 

それまでは二人っきりよ どうぞごゆっくり……」



口元を意味ありげに緩ませた笑みで こんな冗談を言って出かけて行った




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