ジムノペディ
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社長室へ戻ると、すぐに電話がかかってきた。

婚約者の高柳卓(たかやなぎ すぐる)からだ。

「はい、もしもし?」

「突然すいません。今夜、食事でもと思いまして」

「ええ。喜んで・・・・」

「そろそろ結婚式の話もしたいし。」

「結婚式?」

「ええ。いい式場を見つけたんですよ」

「・・・・わかりました。終わったら電話します。」

「では今夜・・・」

なんということもない会話だった。

恋愛にどっぷり浸かっているような

甘い恋人同士とは、大きくかけ離れていた。

29歳という年齢を考えても、これを過ぎると多分 結婚は一生ないだろう。


綾香は電話を切ると、パソコンを開いてメールの確認をした。

ありきたりのメールに、ありきたりの返信をする。


「社長!一時間後にJun氏が到着するそうです」

「そう。S雑誌社の取材は予定通りに出来そうね」

「はい。人形を・・・・ドリアンをうまくPRできそうですね」

「ええ、楽しみだわ」

神崎は深く頷くと、社長室を出ていった。


一時間後、綾香は白いスーツを着て

JunとS雑誌社の取材を見守っていた。

当然、美しい人形のドリアンに注目が集まっている。

美しいという在り来たりな言葉で、彼を表現するには足りなすぎる。

実物の彼を見た人にしかわからない神秘的な魅力。

それは、本物のJunも霞んで見えるほどだ。

取材が終わって、Junが綾香に話し掛けてきた。

「人形のほうが僕よりも見栄えがするので驚きましたよ。

素晴らしいですね」

「Junさんにそう言っていただけるとは光栄ですわ」

「正直、ちょっと悔しいですけど」

「まぁ!ただの人形です。実物にはかないません」

「本気でそう思うのなら、今夜食事でもいかがですか?」

「え?」

Junは綾香の耳元で、そっと囁いた。

「生身の僕と、人形と、どちらがいいか確かめてみませんか?」

綾香には、ますますドリアンとJunがかけ離れて見えるように感じた。

「私には動かない人形で充分!手一杯ですわ」

Junの顔に火がついたように赤くなったのを見届けると

「今日はおつかれさまでした・・・・これで失礼します」

そう言うと、さっさと社長室へ向かった。

背中に、Junの尖った視線を感じながら・・・・・



☆:::::::::::::::::::::::::::::☆

高柳卓は、父の会社の取引先の息子。

ハーバードで経営学を学び、MBAを取得して

将来は大手不動産会社の社長の椅子が約束されている。

理想の結婚だと両親も大きな期待をしていた。

ルックスも申し分ないほどで、穏やかで優しい人だが

綾香が彼に惹かれることはなかった。

そういう気持ちは

きっとこれから二人で過ごすうちに少しずつ抱いていくものだと信じている。

いつものレストランで、いつものテーブルで

こうして卓の顔を見て食事をするのも何回目だろう?

綺麗な笑い方、立ち居振舞い、・・・何もかもが誰よりも洗練されていた。

彼は、いつも落ち着いていて何があっても動じない。

でも、何かしっくりこない。

それでも、多分この人と結婚して共に年齢を重ねていく運命なのだろう。


「これ受け取ってください」

卓が小さな箱を、テーブルの上に置いて綾香のほうへ差し出した。

「気に入っていただけると嬉しいんですが・・・」

綾香が、手にとって箱を開けると、

大粒のサファイアにダイヤが散りばめられたリングが輝いていた。

「これ・・・・・」

「たまたま見かけて、綾香さんに似合いそうだったので・・・」

「でも・・・」

綾香の薬指には

卓からプレゼントされた大粒のダイヤが燦然と輝いていた。

「気に入らないですか?」

「いいえ・・・とんでもない!嬉しいです」

「ああ・・・よかった」

卓は、ほっと胸をなで下ろした。

「あぁ・・・そうだ!

結婚指輪は別に用意してありますよ」

「え?」

「当然ですよ」

綾香は、なんとなく複雑な気持ちで受け取った。

やっぱり、何かしっくりこない。

普通の恋人同士なら、こういう時 ときめいたりするのだろうか?

「新婚旅行は、予定どおりイタリアでいいですか?」

「ええ・・・・卓さんにお任せします」

「そうですか・・・式場なんですが

きっと気に入ってもらえると思いますよ」

その式場は、さぞ豪華で、素晴らしいだろう。

綾香の気持ちは もう結婚を決めているのに なぜか物足りない。

式場も、新婚旅行も、新居も、

何ひとつ自分のことのようには思えなかった。

まるで他人の生活を見ているような気分で、時間だけが過ぎていく。

食後、自宅まで送ってもらうと、いつものように他人行儀でお礼を言う。

そして、彼の車が走り去るのを見えなくなるまで見送るのだ。

いつもと同じことの繰り返し。

キスもしてこないし、手を握ることもなかった。

綾香は、両親と暮らしている家の門にあるインターホンを押した。

「今・・・帰ったわ」

門の鍵が解除され、玄関へ向かう。

家に入ると、母親が出迎えた。

「さっき会社の方から電話があって

あなたに連絡がとれないって言ってたわよ」

「え?ああ・・・携帯のバッテリーが切れてて・・・」

そう言ってバックの中を見たが、携帯電話が見当たらない。

(そうか・・・さっき卓さんの車の中でバックを落としたときに・・・)

「お母さん!ちょっと出てくる」

「え?今帰ったばかりなのに?」

「携帯電話を卓さんの車の中に忘れてきたみたいなの。すぐに帰るから」

綾香は、急いでガレージに向かうと 愛車に乗り込んだ。

(この時間なら20分くらいで着くだろう)

卓のマンションの前に車を止めると、

自動扉を通過してインターホンを押した。

・・・・・・・・・・・・・・・応答がない。

綾香は、そのまま一度外に出て、地下駐車場へと向かう。

そこに卓の車が止まっていた。

(今着いたばかりなのかしら?)

傍に近づくと、綾香は目を疑った。

彼は、助手席の誰かと濃厚なラブシーンの真っ最中だった。

そして密着していた卓の体が、少し離れた瞬間!

体が硬直してしまうほどの衝撃を受けた。

助手席に座っていたのは、見覚えのある顔だ。

以前 卓の会社へ行ったときに、

綾香を敵意のある表情で睨んでいた美青年だった。

(たしか・・・北川・・・要(かなめ)・・・とか紹介された)

綾香が壁際に身を隠すと、二人は車から降りてきて、

再び体を密着させる。卓が北川という男の肩に手を廻した。

そして、そのままエレベーターの中へ乗り込んでいったのだ。

綾香は、そのままその場に座り込んでしまった。

愛など感じられなくても、好きだという気持ちを抱けなくても

結婚して、いつしか愛情を持ち、一緒に人生を歩んでいく人だ。

ただただ涙が止まらなかった。

それから何分そこにいただろう?

立ち上がって車に乗ると、そのまま会社へ向かった。

何故か家には帰りたくない。今は、誰にも会いたくない。

誰もいない会社の鍵を解除すると、

静まり返ったエントランスのソファーに座り込んで

そのまま泣き疲れて寝てしまった。


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