金色の陽と透き通った青空
第29話 新たな試練
「杏樹っ!!行ってしまうのか?」

 この情けない声を発しているのは智弘だ。入院病棟の最上階のエグゼクティブ特別S室のベッドのリクライニングを起こし、サイドテーブルには、山積みの仕事の資料とノートパソコン。体の回復と共に、仕事量も増えていく。
 退院して自宅療養しながら通院でももう良い頃だが、そうすれば毎日の体の機能回復の為のリハビリ運動も怠り、無理してしまうだろうと言う事で、もう少し退院は先伸ばしとなった。
 エグゼクティブ特別S室には、ジャグジーバス、ミニキッチン、6脚のダイニングテーブル、応接セット、デスク、グラスや食器類も完備。応接セットのソファーには、関谷が座っていて、先程まで仕事の補佐をしている所だった。

「どうもお世話になりました。お元気で……」

 淡々と澄まし顔で、杏樹は素っ気無い返事を返す。

「永遠の別れみたいな事言わないでくれ。明日から俺はどうすればいいんだ!!」

 まるで捨てられてしまう小猫のような悲痛な表情だ。

「この病院にはコンシェルジュもいるし、関谷さんだって居るでしょう?ほら……。関谷さんが笑ってるし、恥ずかしいわ。やめてったら」

「だってだなぁ……。杏樹が居なくなると寂しすぎる」

 哀れな捨て猫智弘は、ますます項垂れ萎れていく。

「またすぐ来るから……。全く。あなたってオーバーなんだから!!」

 杏樹がクスリと笑う。

 ――あれから杏樹は、出血も止まり、赤ちゃんの心音もはっきり確認出来、無事退院となった。そして今日がその退院の日。杏樹を追いかけて転院して来た智弘だけ病院に取り残されて、拗ねている所だ。

「杏樹、離婚したら私の所にいつでも戻って来ていいからね」

 今までのやり取りを、しらーっとした覚めた顔で見ていた神崎美帆(かんざき みほ)、通称美帆姉(みほねえ)が、冷ややかな突っ込みを入れる。
 神崎美帆は、海藤家の別荘敷地と隣合わせた広大な土地の地主の娘で、幼い頃より一緒に遊んだ幼なじみだ。杏樹よりは3歳年上なので、杏樹は美帆姉と呼んで慕っている。
 杏樹が自分を傷付けて軽井沢で1人で頑張ってきた事を後々知った時には、『何で頼ってくれなかったの!!』と、杏樹を叱った。あの時の杏樹は、頼りたかったけれど、自分を傷付けてしまった事を知られたくなかったし、悲しませたり、心配をかけたくなくてどうしても頼れなかった。今度何かあった時には絶対と約束したので、今回の事に関しては杏樹も遠慮無く美帆姉を頼ってこの地にやってきた。
 神崎美帆は、今は、親の家業を継いで酪農や、農業、貸しコテージなどを夫婦で経営。美帆の夫は智弘と同年齢のがっちりした大柄なワイルドな人で、農業大学に行っていた頃の先輩後輩だ。がっちりしているので、美帆は夫の事を『クマちゃん』と呼ぶ。

「クマちゃんがエントランスロビーで待ってるから、さあ、智弘さんは放っておいて、行きましょう」

 ニヤッと意地悪そうな顔を浮かべて、美帆は杏樹の袖をツンツン引っ張って急かす。

「美帆さん、もう十分反省してますから、そんな急かして杏樹を連れていかないで下さいよ」

 いやいや……。ずいぶんと嫌われてしまったもんだと、智弘は苦笑する。
 
「だめだめ!!2度の失態は大きいから。私の大事な杏樹を泣かせる人は、容赦しませんから!!じゃあ、智弘さんお大事に〜!!!」

 智弘の言葉を軽くスルーして、美帆は意地悪そうな笑顔を浮かべて、杏樹の荷物を持つと杏樹の手を引っぱった。

「智弘さん!!さようなら〜。お元気で〜」

 杏樹までも、ペロッと舌を出し、意地悪そうな笑顔を浮かべ、手を降って部屋を出ていってしまった。

 その様子を見て堪え切れずに、『クスッ!』と関谷が資料で顔を隠しつつ笑った。

「あのなーー。関谷、顔を隠しても今俺の事を笑ったのは分かってるぞ!!ほらっ。懸命に笑いを堪えてるな!!背中が震えてるぞ!!減給だ!!」

 智弘はチッ!と舌打ちしてから、今度は大きく『ハァーッ』と溜息を漏らした。

「全く……。社長は唯一奥様には素の顔をお見せになる。そんな社長のお姿を見るのは私には凄く新鮮に映ります。とても人間味にあふれた方だなと親しみを感じます」

 智弘に背を向け、応接セットの長椅子に座り、ローテーブルの上に広げた書類に目を通しながら、関谷がポツリと言った。

「ふん!総帥の息のかかったお前に親しみを持たれても、嬉しくもないよ」

 山になった書類を手にとりながら、ノートパソコンのキーを叩き始めた智弘が、先程とはうって変わって冷ややかな仮面を被った顔になって呟いた。

「こんなに一生懸命社長をお支えしているのに、私も嫌われたものですね」
「言っておくがな、総帥に杏樹が妊娠した事は絶対に言うなよ。どんな手を回してくるのか、大凡の見当は付く」
「社長、私は社長側の者ですから、社長がお困りになるような事は一切言うつもりはございません。ですが、お気を付けになった方が良いと思います。こちらに転院なさった事などで、もうすでに足が付いていると思われますし、奥様の身辺を調べれば総帥の耳に入るのも時間の問題かと……」
「杏樹周辺に警護を付けておいた方がいいな」
「早速手配しておきます」

  ――そんな2人の緊迫した会話を遮るように、智弘の携帯に、メール着信音が鳴った。
 
「杏樹からだ……」

  ――――また明日行くわね。あまり仕事に根をつめすぎないで!リハビリもサボっては駄目よ!!夜は早めに寝て、夜更しは駄目よ!!――――

 メールを読んでいたら、ついつい顔が緩みがちの智弘。そんな智弘を見て、関谷も可笑しくて微笑む。そしてお互に視線を感じてバチバチッと目があう。

「社長。顔が緩みまくってますよ!」
「そう言うお前こそ、俺を見てにやけるな!!いつも能面のような顔をしているお前が、笑うと怖すぎる」

 お互いに今度はバチバチッと仏頂面に変わった。

 
* * * * *


 杏樹は美帆姉とエレベーターで1階に降り、エントランスゲート脇の広いロビーに向った。そこには、ガタイのいいクマのような男性が長椅子に座り文庫本を読みながら、2人が下りて来るのを待っていた。
 杏樹と美帆姉が声をかけると、クマちゃんは本を閉じ立ち上がって笑顔を向けた。

「やあ、杏樹ちゃん、退院おめでとう。本当に良かったね」
「本当にご心配お掛けしてすみませんでした。お陰様で元気になりました。また暫くお世話になりますが、よろしくお願いします」
「いやいや……。そんな事は気にしないで。暫くはコテージじゃなくて、うちでゆっくり過ごして」

 クマちゃんは、にっこり笑いかけた。
 ふさふさの立派な髭が見事なクマちゃん。ジーンズにナチュラルなチェックのシャツの着こなしがアーリーアメリカンカントリーという雰囲気で、すごくワイルドだ。ちょっぴり気が強くて、ハキハキしてて、姉御肌で、華奢な杏樹とは違って、背も高くて体育会系の筋肉質でボーイッシュな美帆姉とは本当にお似合いの夫婦。

「はい……。お言葉に甘えて、暫くお世話になります」

 遠慮なく甘えられるのも、気心知れた幼なじみであり、気さくな2人だからだ。

「じゃあ、私、退院手続とお会計をしてくるから」
「1人で大丈夫?お会計のお金は大丈夫?」

 美帆姉が心配顔……。

「もうっ。やだ美帆姉ったら……。私子供じゃないし……。お会計はしっかりカードで払って夫名義の口座から落とされるから心配ないわよ」
「それなら大丈夫ね!!」

 お互いに笑いあって、ロビーで別れて、杏樹はお会計窓口に向った。 
 お会計窓口で退院手続と会計を済まして、美帆姉夫婦の待っているロビーに戻ろうとした時だった。

「すみません……」
「はい?」
「私、玖鳳総帥から杏樹様をこちらで手配した別荘にお連れするようにと言われまして」

 その男は、体格良くきっちりとスーツを着こなし、隙の無さそうな雰囲気で、総帥の身辺警護のSPかなとも思った。それとも秘書?

「でも、これから友人の家で暫くお世話になる事になってますので……。そこのロビーで待ってくれておりますし」

 いきなり来いといわれても、易々と行く気持ちにはなれない。総帥とはずっと疎遠で、好まれてない事も十分分かってるし警戒心が現れる。

「総帥は、玖鳳グループの跡継ぎが生まれる事になって、大変お喜びになっております。お子様を最高の環境でお守りするようにとの御達しですので」

  ――何ですって!?跡継ぎ!?杏樹は背筋が凍りつく気持ちになった。

《第30話に続く》





 
 
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