【電子書籍化】長靴をはいた侍女【記念SS公開中】
【電子書籍化記念SS】夜空を渡る雲
晴れである。
ここ十日ほどずっと晴れである。
わずかに曇る日はあっても、とても雨が降り出しそうな天気ではなかった。そして降らなかった。
伯爵家の主従は、ある意味で大変仕事が捗った。手紙を受け取る必要も書く必要もなく、雨が降るかどうかと悩む必要もない。
しかし同時に、彼らは萎びてもいた。雨の足りない花のごとく、明らかに覇気が足りない。
「今日までの仕事は全て終わりました」
そして、ついに仕事までなくなってしまう。主が恨めしそうに執事のファウスを見る。
「受け取る手紙もない、こんなつまらない日々は、人生の浪費だと思わないか?」
「他の令嬢からの手紙なら届いております」
「それは私が魅力的だから仕方がない」
「……左様ですか」
「そうではなく、心踊らされる手紙が欲しいのだ」
「……」
主は、雨の日に届く手を欲しがっている。こんな状態になっている時点で、子爵家令嬢の術中に見事にはまっているというのに。自身を客観視できれば、そのことに気づけるのだろうが、この目隠しは強力だ。
種も仕掛けも知っているファウスでさえ、雨を奪われると乾きにも似た感情を持て余すのだから。すました顔をしているが、主の気持ちは誰よりもよく理解できている。
「気晴らしに、お出かけになられてはいかがですか?」
このまま目の前で唸られ続けても面倒なので、ファウスは天気のいい外へと主の意識を促した。しかし、それは失敗だった。窓の外を見た主は、前よりももっと不機嫌な顔になってこう言ったのである。
「……手紙を書く」
「子爵令嬢への手紙であれば、既に書いておられます」
「手紙を書いて随分間も空いた。内容が古くなってしまっている。それに、いまのこの気持ちを書き記さなければ気が済まない」
「……畏まりました」
ひたすらに晴れを恨み続けるよりは良いと、ファウスは便せんを用意した。
ペンを持ち便せんに向かった主が、気取った文字を並べ始める。その文字が、だんだんと勢いを増してくる。
「ファウス、次」
二枚目の便せんを差し出す。
「ファウス、もう一枚だ」
三枚目──過去最多枚数に突入した。
文字がその用紙の半分を越えた頃、ファウスは小さく咳ばらいをした。このままでは、封筒が不格好なほど分厚くなる。
恋の駆け引きとしては、まるまると太った封筒を渡すなど完全敗北に等しい。
はっと我に返った主は、ようやくペンの動きを緩め、不承不承最後の挨拶を書き記し、署名を終えた。
「……あとは、雨が降るだけだ」
「左様ですね」
主と執事は窓の外を見た。ため息をついたのは主だけだった。ファウスはそれを呑み込んだので、誰にも知られることはなかった。
その日の夜。ファウスは自室で便せんに向かっていた。彼の主は欠点も多いが、倣うところもある。
胸の内で渦巻く感情を手紙で昇華しようという考えは、ファウスにとっても必要なことに思えたからだ。
--
親愛なる長靴をはいた侍女 殿
長らく晴れが続いて、侍女殿は退屈だったのではないだろうか。
野の草花も、雨を失うとその身を焦がし耐え続けなければならない。降りすぎるのも良くないが、降らなすぎるのも良くはない。雨を待つ植物たちのためにも、もう少しは降ってほしいものだと私も思う。
侍女殿は、夜に窓の外を見上げることはあるだろうか。夜空を見て、明日の天気を占うことはあるだろうか。
私は夜空を雲が渡ることを好ましく思う。特に、月や星をカーテンの向こうに隠してしまうような雲が、空を渡る姿は風情があって好ましい。
だから私は、夜空に雲を探す。それがたとえ頼りなく薄い雲であってもよい。なにもないよりはずっと良いことだ。
侍女殿にも好ましい夜空はあるだろうか。もし手紙に何も書くことがない時に、この質問を思い出したなら、便せんを夜空で埋めてみるといい。
侍女殿の夜空にも、好ましい雲がかかることを願っている。
伯爵家執事 ファウス・ユーベント
--
ファウスは手紙を書き終え、窓辺のカーテンを少し開いて夜空を見た。
丸く黄色い月が、空には浮かんでいる。
その月を── 一筋の雲が通り過ぎていった。
【終】
ここ十日ほどずっと晴れである。
わずかに曇る日はあっても、とても雨が降り出しそうな天気ではなかった。そして降らなかった。
伯爵家の主従は、ある意味で大変仕事が捗った。手紙を受け取る必要も書く必要もなく、雨が降るかどうかと悩む必要もない。
しかし同時に、彼らは萎びてもいた。雨の足りない花のごとく、明らかに覇気が足りない。
「今日までの仕事は全て終わりました」
そして、ついに仕事までなくなってしまう。主が恨めしそうに執事のファウスを見る。
「受け取る手紙もない、こんなつまらない日々は、人生の浪費だと思わないか?」
「他の令嬢からの手紙なら届いております」
「それは私が魅力的だから仕方がない」
「……左様ですか」
「そうではなく、心踊らされる手紙が欲しいのだ」
「……」
主は、雨の日に届く手を欲しがっている。こんな状態になっている時点で、子爵家令嬢の術中に見事にはまっているというのに。自身を客観視できれば、そのことに気づけるのだろうが、この目隠しは強力だ。
種も仕掛けも知っているファウスでさえ、雨を奪われると乾きにも似た感情を持て余すのだから。すました顔をしているが、主の気持ちは誰よりもよく理解できている。
「気晴らしに、お出かけになられてはいかがですか?」
このまま目の前で唸られ続けても面倒なので、ファウスは天気のいい外へと主の意識を促した。しかし、それは失敗だった。窓の外を見た主は、前よりももっと不機嫌な顔になってこう言ったのである。
「……手紙を書く」
「子爵令嬢への手紙であれば、既に書いておられます」
「手紙を書いて随分間も空いた。内容が古くなってしまっている。それに、いまのこの気持ちを書き記さなければ気が済まない」
「……畏まりました」
ひたすらに晴れを恨み続けるよりは良いと、ファウスは便せんを用意した。
ペンを持ち便せんに向かった主が、気取った文字を並べ始める。その文字が、だんだんと勢いを増してくる。
「ファウス、次」
二枚目の便せんを差し出す。
「ファウス、もう一枚だ」
三枚目──過去最多枚数に突入した。
文字がその用紙の半分を越えた頃、ファウスは小さく咳ばらいをした。このままでは、封筒が不格好なほど分厚くなる。
恋の駆け引きとしては、まるまると太った封筒を渡すなど完全敗北に等しい。
はっと我に返った主は、ようやくペンの動きを緩め、不承不承最後の挨拶を書き記し、署名を終えた。
「……あとは、雨が降るだけだ」
「左様ですね」
主と執事は窓の外を見た。ため息をついたのは主だけだった。ファウスはそれを呑み込んだので、誰にも知られることはなかった。
その日の夜。ファウスは自室で便せんに向かっていた。彼の主は欠点も多いが、倣うところもある。
胸の内で渦巻く感情を手紙で昇華しようという考えは、ファウスにとっても必要なことに思えたからだ。
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親愛なる長靴をはいた侍女 殿
長らく晴れが続いて、侍女殿は退屈だったのではないだろうか。
野の草花も、雨を失うとその身を焦がし耐え続けなければならない。降りすぎるのも良くないが、降らなすぎるのも良くはない。雨を待つ植物たちのためにも、もう少しは降ってほしいものだと私も思う。
侍女殿は、夜に窓の外を見上げることはあるだろうか。夜空を見て、明日の天気を占うことはあるだろうか。
私は夜空を雲が渡ることを好ましく思う。特に、月や星をカーテンの向こうに隠してしまうような雲が、空を渡る姿は風情があって好ましい。
だから私は、夜空に雲を探す。それがたとえ頼りなく薄い雲であってもよい。なにもないよりはずっと良いことだ。
侍女殿にも好ましい夜空はあるだろうか。もし手紙に何も書くことがない時に、この質問を思い出したなら、便せんを夜空で埋めてみるといい。
侍女殿の夜空にも、好ましい雲がかかることを願っている。
伯爵家執事 ファウス・ユーベント
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ファウスは手紙を書き終え、窓辺のカーテンを少し開いて夜空を見た。
丸く黄色い月が、空には浮かんでいる。
その月を── 一筋の雲が通り過ぎていった。
【終】
