泡沫(うたかた)の落日

第4話 新しい生活のスタート

 ――新しい1日が始まる。

 聖愛は、がらんどうのウォークインクローゼットにポツンと置かれたエキストラベッドから飛び起きると、大きく背伸びをした。作り付けの棚に置いた、昨日購入した卓上型の小さな目覚し時計は朝の5時15分をさしている。壁面上部の飾り小窓から見える空は、まだ日の出前なので濃い青紫色のグラデーションだ。

 昨日渡部さんから言付かった今日一番初めにやるお仕事は、旦那様の朝食作り。あっ、『旦那様』とは元夫だった人の事。昨日、何て呼んでいいのかも分からず『あの方』と呼んでいたら、渡部さんから「明日からは『旦那様』とお呼びになってください」と注意を受けた。結婚している時にはあの人の事を私は何と呼んでいたのだろう。
 いつもは、前日にシェフが用意しておいた朝食を、自分でレンジで温めて食べていたらしい。お食事時間は大体6時30分頃だそうなので、それまでには完成させないと……。
 家事を一切やった事のない私だそうなので、何が作れるのか?自分でも分からないけれど、兎に角何でもやってみなければ……。でも、何だかやった事があるような、出来るような……むしろ得意な気がするのだけれど……。それは私の願望から来た妄想とか、夢の中の話しなのかしら?兎に角、今日から頑張ろう。

 顔を洗い化粧水と乳液で整えて、5分と言う早技で軽くメイクしたあと、セミロングの髪の毛を後ろでクリップで束ねる。スウェットのパジャマを脱いでハンガーにかけたら、昨日買った長袖シャツとストレッチジーンズ、それにカジュアルなデザインのエプロンドレスを着る。普段は仕事に適した服装で、毎日清潔にキチンとした着こなしを守れば自由で良いらしい。但し、屋敷内で財界人や著名人などを招待して、時々行なわれるパーティーや様々なイベントのある時には、支給された上質のフォーマルスーツタイプのメイド服を着なくてはいけない決まりらしい。
 高速で身支度完了。ジャスト15分。あれ、なんだかいつもこんな慌ただしい朝の生活を送っていたような気がするのだけれど……。

 キッチンに行くと、どこに何があるのかが分からず……。あちこちのキャビネットや食器棚や引き出しを開け回り、中を確認したり、大きな冷蔵庫を覗いたり、食品庫の中を物色したり……。15分のロスタイムでやっと、キッチンの状況が大体把握。早めに起きておいて正解だった。
 美味しそうなクロワッサンやレーズンパンやバゲットを発見!きっと朝はパン食なんだと納得。まず、コーヒーを入れる為のお湯を沸かし、バゲットを食べやすいサイズにカットして、パン類をウォーマーで温め、バスケットにブレッドバスケットナプキンを敷いて、パンを並べる。バター小皿にカットしたバターとコンフィチュール(ジャム)を並べる。
 スープは野菜のコンソメスープを作ることにしよう。かくし味に粗びきのブラックペッパーとブーケガルニを少々……。白磁に美しいポーセリンペインティングの両手付きスープカップ&ソーサーに入れる事にした。
 朝食にピッタリそうなプレートには、ふわふわのスクランブルエッグとパリパリジューシに焼いたウィンナーとサラダに食べやすくカットしたオレンジを彩り良く並べる。手作りのフレンチドレッシングはガラスのドレッシングピッチャーに入れておいて……。
 小ぶりのヨーグルトボウルにプレーンヨーグルトを入れ、ほんのり甘くなるぐらいに蜂蜜を加えて軽く混ぜてから、上にラズベリーソースを適量かける。

 キッチン隣のダイニングルームの旦那様の席のテーブルに、ランチョンマットとカトラリーを並べて、出来上がったお料理を並べる。
 私、一つ気が付いたけれど、お料理が得意で大好きみたいだ。自分の事について一つ発見した。そして自信がついた。

「あ、おはようございます」

 テーブルに朝食を並べ終った頃に、旦那様がダイニングにやって来た。

「おはよう」

 低血圧で不機嫌なのか?ちょっと仏頂面。

「これを全部おまえが?」

 酷く驚いているような……。毒でも入ってないか?ちょっと疑いの眼のような……。

「私も今発見しましたが、お料理が好きで得意みたいです。一つ自分について知る事が出来ました。あ、スープも作ったので、今持って来ますね。お飲み物は何がいいですか?」

「野菜ジュースに、食後にコーヒーを……。砂糖無しでミルクはたっぷり」
「はい」
  
 キッチンに行って、温かいスープをあの可愛い持ち手の付いたスープカップによそい、乾燥パセリをパラパラと散らして、グラスに野菜ジュースを入れ、それらをトレーに乗せて運び、ダイニングの旦那様のテーブルに置く。

 見た目は美味しそうに見えるが……。嶺司は無言のまま、恐る恐るスプーンでスープをすくって口に運ぶ。「…………。うまい……」それからスクランブルエッグやウィンナーを次々に口に入れ味見する。「どれも美味しいじゃないか……」

「ありがとうございます。私、料理が得意みたいです。そろそろコーヒーの準備をしますね」

 嶺司はトレーを抱えてキッチンに行く聖愛の後ろ姿を繁々と見ながら思った。『全く別人のようだ……』 時々フラッシュバッグして悪寒が走る、あのおぞましく、心の中が醜く、男性関係にもだらしなく汚れた女聖愛とは、本当に別の人間のようだと思った。まるで、中身だけ別の人間と入れ替わったみたいにも思えて来る。

 だが、今の様な清純で天使のように優しそうな聖愛を、過去にも見た事があった事をふと思い出した。そう、一目惚れして結婚を決意したあの時も同じだった事を……。

 (第5話に続く)
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