ファントム・アクター
前編
前編

ここはどこだ?
暗い……トンネル?僕は……僕は、誰だ?
どうして、こんなところに?
人の気配を感じてゆっくりと後ろを振り返る。辺りが暗いせいだろうか、近くにいる筈なのに影に隠れてぼんやりとしか姿が見えない。
僕は急に恐ろしくなってその場から逃げだす。僕のすぐ後ろを影が追いかけてくるのがわかる。奥に光が見える。
何故だかわからないけど、あの光まで行けば大丈夫だとそんな気がした。
もう少し……。
あとほんの数メートルで光に届きそうなところで、僕は物凄い力で後ろに引き戻される。まるで何かに羽交い絞めされたかのようにそれに逆らうことができない。見れば、僕の身体に巻きついているのは幾重にも重なる人の手だった。

***

悪い夢を見た……。何が悪いって寝覚めが悪い。
パジャマが汗でびっしょりと濡れ、肌に張り付いて気持ち悪かった。
最近は似たような夢ばかり見る。しかし、時計を見ればすぐに現実へと引き戻されて、僕はいつも通り学校の支度をする。そうしているうちに、夢の記憶はだんだんと薄れ、頭のどこか隅の方に消えていくのだ。そんなとりとめもない普段と変わらぬ朝だった。
学校に着くと教室にはまだ誰もいない。それもそのはず、始業時間まではまだ二時間以上ある。僕が朝早く来るのは所属する演劇部の早朝練習の為だ。本番の公演を2カ月後に控え、今から部員一丸となって取り組んでいる。
僕は脇役ではあるがセリフも多く、何より高校生活最後のステージとなるのだ。今までの舞台も手を抜いてきたつもりはないが、今回だけは今まで培ってきたすべてを出し切って絶対に成功させたいと思っていた。
稽古場所の講堂へ向かうと、すでに何名かの部員が準備を始めていた。僕はその中でも、すでに準備を終え今日稽古するシーンの台本をチェックしている姫野 結奈(ひめの ゆな)に声をかけた。

「おはよう!姫野さんいつも早いね」

「おはよ芹澤(せりざわ)君。最後のステージだもん!わたし、頑張っちゃうよ!芹澤君も早く、準備準備」

そう言って彼女はパタパタと手を動かす。今回の舞台は彼女がヒロインを務める。演目は『オペラ座の怪人』。オペラ座に住まう怪人のファントムに執拗に迫られる女優のクリスティーンを演じる。今なお愛される古典名作の一つである。
彼女にとってもこの配役は大抜擢であり、初の主演だ。張りきるのも無理はない。おかげで僕もますます失敗できないと、いつになく気合が入っているのだ。

「はは、姫野さんはいつも頑張ってるよ。うん、僕も頑張る。絶対成功させよう」

「そうだ!いいぞ芹澤君。よぉーし、ガンガン行こうぜぇ!」

「でも、攻めすぎて途中で倒れないようにしないとね」

「大丈夫、屍はわたしが拾ってあげるか、ら!」

「わっとっと」

背中を押されてバランスを崩しながら僕は更衣室に着替えに向かう。
着替えて出てくると部長の鳥越 信也(とりごえ しんや)が指示を出しているところだった。みんながそれぞれの配置へとついて練習を始める。
と、あれ?おかしいな。今日やるシーンはここじゃなかったはずだけど……。僕はくるっと講堂を見まわして、彼がいないことにすぐに気がつく。この劇の主演オペラ座の怪人ファントムこと2年・鷹左右 喜壱(たかそう きいち)だ。

「また……か」

彼の遅刻は今に始まったことじゃない。実力はずば抜けていて、どんな難しい役もこなす。今回のファントム役も本来なら3年生で部長の信也がやるはずのところ、その信也自らの推薦で喜壱が主演に決まった。姫野さんのクリスティーンとの相性も誰もが認めるところで、それは僕もわかっている。最高の舞台にするなら主役は彼しかいないと。
だが、遅刻やサボりの常習であり練習に来ても不真面目に他の部員を茶化したり、関係ないことをして遊んでいたりと、僕はほとほと愛想が尽きていた。
それでも主役を降ろされないのは誰も彼以上の演技をできないとわかっているから……。
そして意外にも部内で彼をよく思っていないのは僕だけだったからだ。
その日、結局喜壱は早朝練習に姿を現さなかった。

***

放課後。
といってももう8時を回ってしまって辺りは暗く、校内に残っている人間は僕たち演劇部だけだった。今日の練習を終え僕は着替えを済ませて帰りの支度をしている。その横では他の部員たちがやんややんや盛り上がっていた。その中心はあいつ……喜壱だ。

「もう!喜壱、明日の朝練はちゃんと来ること!わかったぁ!?」

姫野さんが丸めた台本で喜壱の頭を軽く小突く。しかしその言葉とは対象に表情はいたってにこやかだ。叱られた喜壱もヘラヘラしながら、

「だからゴメンって!朝弱いんだよぉ俺ぇ。明日は頑張る!超本気出す!ね、ね」

「遅れたら全員に丸十(まるじゅう)のメロンパンだよ」

「えぇ!?結奈ちゃん鬼か!マジ勘弁だよ。ほら財布見て、ほら、今の所持金31円だから!」

自分の財布を広げてみせる喜壱に他の部員達からも「うわぁ、ひっさ~ん」だの「財布売ったら?」だの「寄るな、貧乏がうつる」だのの声が上がり、笑いが起きる。僕には何が面白いのかわからない。それどころか全く反省の色が伺えない喜壱の態度に腹さえ立ってくる。僕はさっさと支度を済まして、そこから立ち去ろうとする。

「信也、先行ってるぞ」

「あ、待てよ太陽(たいよう)」

講堂のドアを開けると、女生徒二人がちょうどそこを通りかかった。まだ残ってる生徒いたのか。おそらく吹奏楽部かな?
二人はチラッと講堂の中を覗くと、

「あ、あれあれ、真ん中の黒髪ロングの」

「喜壱君の彼女ぉ?うわー、お似合いっぽい。なんだ、ちょっと狙ってたのになぁ」

「いや、無理だって。あんた鏡見ていいなよ」

「なによもー!!」

そんなことを話しながら行ってしまった。僕は半身で振り返って講堂の真ん中で人に囲まれて笑う姫野さんを見る。動くたびに揺れる彼女の長い黒髪は、蛍光灯の灯りを反射してまるで上質の絹のようにも見える。そこに遅れて信也が出てきた。

「あれ、先に行ってたんじゃなかったのか?」

「……お前を待ってたんだ、行くぞ」

「ふーん……」

僕はすたすたと歩きはじめる。
チラッと信也も講堂の中を見た気がしたが、まぁどうでもよかった。
帰路の途中。いつもはくだらないことを喋る信也が妙に無口だったのは、彼なりに何か察したのであろう。部員数の多いうちの演劇部で部長を任されている信也は、よく周りを見ていて人の機微をいち早く察知する。おかげでなんやかんや世話を焼かれ、いつの間にか仲良くなったのだが……。僕はそんなにわかり易いのだろうか。
二人の帰り道がわかれるところに来る直前に、そこまで黙っていた信也が口を開いた。

「なぁ、太陽。おまえ、なんか無理してないか?」

ん?言っていることがよくわからなかった。僕が無理をしている?どうして今そんな言葉が。僕はそれをそのまま口にして信也に聞き返した。

「んー、なんつーかさ、気にしすぎっていうかぁ……あー、何て言えばいいのかわっかんねぇ」

「気にし過ぎ?何を気にしてるって?姫野さんのことを言ってるのなら見当違いだ。僕はなんとも思ってない。余計なお世話ならやめろよ」

「いや、姫野じゃなくて喜壱」

「喜壱?」

言われて言葉に詰まってしまった。僕が喜壱を気にしているだって?

***

信也が変なことを言うもんだから妙に考え込んでしまって、危うく次の日の早朝練習に遅刻してしまいそうになった。僕は廊下を走らないようにしながら、最速で講堂を目指した。そんな僕を後ろから走って追い抜いていったのは喜壱。
朝一番に嫌な奴の顔を見てしまった。僕は喜壱を呼びとめる。

「おい!廊下を走るな。そこに書いてあるだろう」

僕は掲示板に貼ってある注意書きを指さす。喜壱は僕の呼びかけに応じその場で足踏みしながら、しかしその顔は焦っていた。

「たたた、太陽先輩!こんな朝に誰もいないですよぅ。それより遅刻しちゃいますよ!」

丸十のメロンパンがぁ~なんて情けない声を出し、その場の足踏みが早くなる喜壱。しかし僕はこれでも風紀委員に所属している。しかも副委員長。規則違反を見過ごすわけにはいかないのだ。
だが遅刻しそうなのもまた事実……しかたない。

「競歩だ!」

「きょ……競歩っすか!?わ……わかりました!」

朝っぱらから誰もいない廊下で競歩する高校生男子2人の図はシュールだったが、規則も破らず早朝練習にも間に合ったのでよしとしよう。それにしても、僕の注意に素直に応じた喜壱が意外だった。僕は喜壱とは必要な時以外しゃべらないし、僕が嫌っているのだから当然向こうにも嫌われていると思っていた。
昨日の信也の言葉が頭をよぎる。
放課後の練習後、当の信也がやってきて僕に言った。

「朝、喜壱と一緒に来たんだって?」

「廊下でたまたま会っただけだ」

「ふーん」

「あー、太陽先輩!危なかったっすね今朝。先輩が走るなって言うもんだから焦ったっす。でも間に合ってよかったわ~。結奈ちゃん本気で奢らせようとしてたからな、うん!」

その先信也が何か言いかけたところへ喜壱が割って入って来たため僕らの会話はそこで途切れた。信也は何が言いたかったんだ?なにやら含んだ笑みを残して信也は他の部員のところに言ってしまった。とりあえず、話しかけられたのだから僕は喜壱に応じるほかなかった。

「先輩をちゃん付けで呼ぶのはどうかと思うぞ」

意識しなくても刺々しい口調になってしまう。だが喜壱はそんなこと気にする様子もなく、

「大丈夫大丈夫!本人に了承得てるっす!」

「そうゆう問題じゃないだろ。あと、僕のことを太陽って呼ぶのもやめろ。僕はその名前が嫌いなんだ」

「え、なんで?めっちゃカッコよくていい名前じゃないですか!」

だから嫌いなんだ。僕には似合わなすぎる。
僕を下の名前で呼ぶ奴はいないし、信也も大勢のいる前では呼ばない。
だから今朝喜壱にその名前を呼ばれて少し驚いた。と、そんな余計なことは言わないが。

「とにかく嫌いなんだ」

「そっすか……わかりました」

そして気まずく会話が途切れたところで、喜壱は他の部員に呼ばれ行ってしまった。
今の会話でなんとなく信也が言ってた意味がわかった気がする。僕は喜壱が嫌いだ。それは常々思っていたことだが、それはつまり無関心とは違う。喜壱のことを気にしないように、意識しないようにと考える時点でもう思いっきり意識してしまっている。
もちろんそんなこと誰にも悟られないように隠してきたつもりだった。というか僕だって気づいていなかった。そんなもの無意識だ。無意識で意識しないこと意識してしまっているなんて、なんだかややこしくてわけがわからなくなってきた。
ともかく……だ。
じゃあなんで僕は喜壱のことを嫌っているんだ。いざ真剣に向き合ってみるとこれと言った理由が思いつかないことに自分でも驚いた。
遅刻をする。練習中遊んでいる。礼儀がなってない。
腹の立つ理由はあれど、そんなことで人を嫌いになるのなら僕の周りは嫌いな奴で溢れているはずだ。もっと別の何か……。

「キャー!!」

突然の女生徒の悲鳴が僕の思考をぶった切った。声がしたのは講堂のすぐ外だった。僕の他講堂に残っていた部員たちが一斉に駆け付けると、廊下に出てすぐ2階に上がる階段の踊り場で女生徒が喜壱を抱き起しているところだった。喜壱は頭から血を流してぐったりとしている。

「姫野、救急車だ!太陽、お前は先生呼べ!あとAEDも持ってこい!」

信也が冷静に指示を出し喜壱のもとへ駆け寄る。
血を流した喜壱を見たとき、僕の頭は真っ白になってしまっていた。身体の震えが止まらないまま、僕は言われた通り職員室へと走った。
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