『無明の果て』
いつもなら黒と白の石を持ち、厳しく碁盤を打ち抜く細く長い指を広げて、涼はその手で静かに絢の頭に触れた。



触れながら


「試合です。

これから試合なんです。

中国の大会に出る事になって、そこに良い先生がいるんで、少し修行も兼ねて行く所なんです。」



「でも、プロ試験はいつ?

どうするの?」



「半年先です。

麗子さん、大会が済めば戻るんですよ。


プロ試験のために、試験に勝つために闘って来ますから。」



涼は、私がアメリカへ旅立つ時のように泣いたりはしない。



迷いや、嘆きや、不安や、失望までも、希望という名の未来への夢の前では、すぐに色あせてしまったんだろうと、今を迎えて私は思った。



子どもの頃に思い描いた大人と言う漠然と感じていた高い壁は、いつごろから目の高さになっていたんだろう。


見上げ、あこがれたそんな大人に、追い付けるのはいつなんだろう。



「涼…」



言いかけた時、案内のアナウンスが流れ

「麗子さん、じゃ行って来ます。


麗子さん、僕に力をくれますか。

麗子さんがアメリカで頑張って来たみたいに、僕も頑張れるように。」



涼はあの時と同じように、私を見送ってくれた時と同じように、私の前に右手を出し、私はそれに答え その手を握った。



強く握ると壊れそうな繊細な指は、それに負けないくらいしっかりと握り返し、そして私の目を見つめ こう言った。



「あの時の時計じゃないんですね。」


そうよ、涼…


もうあの時とは 違うのよ…



「一行が誕生日に、挙式の時くれたの。」



涼はそれ以上の美しさはないと思うほどの優しい微笑みで



「そうですか。」


そう言いながら 手を離した。



二度目のアナウンスを聞いて、涼は荷物を持ち歩き出した。



「麗子さん、さっき、何を言おうとしたんですか。」



「何でもないわ。

頑張ってって、それだけよ。」



「そうですか。


じゃ、一行によろしく。」
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