あの夏よりも、遠いところへ

無視を決め込んだ俺に、スミレは苛々したようにわざとらしく息を吐いて、後ろからクッションを投げつけてきやがった。

うっぜえな!

妹なんて本当に要らなかったよ。やっぱりきれいな姉ちゃんがよかったぜ。北野はいいよな。あんなにきれいな姉ちゃんがいてさ。


「なあ兄ちゃん、数学教えてーや」

「もうほんま知らんって。忘れたし」

「はあ? 来年は受験生なんやで? 分かってるん?」


受験か。そうか、もうそんな年齢なのか、俺。

みんな、どういう基準で大学を選ぶんだろう。やりたいこととか訊かれても、ぴんと来ねえしなあ。

……そうだな。やりたいこと、か。


「……音大、行こかな」


思いつきだった。なんとなく口からこぼれただけの台詞だったのに、スミレは大事件が起きたかのように騒ぎ倒して、オカンに報告しに行った。

プロになってメシを食っていくとか、そういうつもりでピアノを弾いているわけじゃない。動機は、サヤというたったひとりの存在だけなんだけど。

まあでも、他に、やりたいこともねえし。


北野が言った。ずっと弾き続けていてと。彼女の――サヤのために。

驚いたよ。6年前のあの夏を、北野は見ていたのかと思った。だってサヤは、言ったんだ。


『――私、蓮にはずっとピアノを弾いとってほしい』


まだ、彼女の透き通るあの声で再生される。何度だって再生される。

そして俺は、いまだに、ピアノを弾き続けている。
< 137 / 211 >

この作品をシェア

pagetop