【完】『海の擾乱』
第二部 博多の巻

1 蹂躙(じゅうりん)の日

そのときは、来た。

いや。

厳密にいえば来てしまった、と書いたほうが的確かと私事ながら思われる。

文永十一年十月五日。

この日。

朝方、国府の八幡宮で火災があり、対馬は一様に動揺を拭えないまま、夕方を迎えている。

申の刻。

佐須の浦の漁師から船団が見えた、と注進が来た。

宗資国をはじめとする八十余騎の対馬勢は、佐須浦を見渡せる峠までたどり着いた。

そのとき。

「…なんじゃあれは?!」

驚いたのも仕方ない。

朱や白に塗られた船の一団が、ウジャウジャと沖の西陽を浴びながら、こちらへ帆を立てて進んでいるのである。

「鎌倉から知らせは、来てこそいたが」

あれが蒙古か、と郎党たちは戦支度を始めた。

静かな海にカチャカチャ、と鎧の小札の互いに摺れる音がする。

「待て」

資国はいう。

「まずは仔細を詳しく訊かねば話にならぬ」

この時期の日没は早い。

明朝通訳を差し向けるべく船の準備が始まり、この日は暮れた。

翌日。

夜明けの卯の刻、通人と数人の武士で沖合に停泊した船団へ船が差し向けられた。

次の刹那。

通人の首めがけて矢が飛んだ。

刺さった。

通人は苦しみ出した。

「毒矢とは…蒙古、卑怯なり!」

太刀を抜いた。

そこに矢が雨のように浴びせられ、当たっては倒れ、海に次々落ちてゆく。

船は空になった。

そのうち船団の八隻ほどから、千人ばかりの手勢が陸地に小舟で次々向かってきた。

資国の郎党が名乗りをあげた。

「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くに寄りて目にも見よ、我こそは」

兵衛の三郎…とまでいった瞬間、矢が一斉に刺さった。

ハリネズミのようになって落馬した。

ピクリとも動かない。

「…名乗りも挙げさせぬとは」

対馬の地侍たちは蒙古式の戦法に戸惑うばかりで、たちまち馬ごと取り囲まれ、気が付けば次々と討ち取られてゆくばかりである。

佐須浦は、たちまち焼き払われた。

資国は博多へ斎藤兵衛次郎という家来を遣わし、在所の武士も三根浦や加志浦で戦闘を開始したが、戦況はいっこうにはかばかしくない。

やがて…。

小茂田浜に追い込まれた資国の八十余騎は、飲み込まれるように、次々蒙古軍に討ち取られていったのであった。

対馬から斎藤兵衛次郎が太宰府へと着いたのは十三日である。

高齢の武藤資能から嗣いだばかりの少弐経資は、斎藤からの知らせを受けると、六波羅へ急使を出した。

次は壱岐がターゲットとなった。十四日、壱岐守護代の平景隆以下百余騎は、樋詰で蒙古軍四百余と会戦したが、やがて城内に追い込まれ、自刃して果てている。こちらも家来の三郎という者が博多へ急行し、こちらは十八日に着いている。

さらに。

狙われたのは鷹島と松浦である。十六日、地の利を活かし、松浦水軍では湾を抱き込むような半島の間に、船団を誘い込む作戦がとられた。

房(ふさし)率いる佐志家の船団も加わり、海上で矢の応酬となったが、沿岸に上陸され陸と海から挟まれると、みるみる松浦水軍の船団が数を減らしていった。

佐志軍は平戸の沖まで退却を余儀なくされ、房は嫡子を失うという打撃を受けたのであった。



六波羅に対馬からの早馬が着いたのは、十七日。

松浦の戦いの翌日にあたる。

六波羅では探題赤橋義宗、六波羅評定衆の後藤基頼、さらに後見の眼代となっていた行藤が協議の末、早馬と同時に鎌倉へ正使を派遣することで決まり、行藤が鎌倉へ下ることとなった。

翌日。

壱岐の注進が博多に着いた同日、行藤は為家卿に面会し、

「対馬に蒙古の兵が来ましてございます」

といった。

「昨日対馬から早馬が参りましてございます」

それがしも鎌倉へ下ることとなりました、と行藤は頭を下げた。

「都はどうなるのや」

「今のところ因幡や但馬に蒙古が来たとは何も知らせがありませぬゆえ」

博多で食い止められるかどうかが勝負にございましょう、と行藤はいった。

「院はえらい気にかけてはります」

「執権どのの目論見通りに運べば、この行藤が都へ戻る頃には勝敗がついておりましょう」

珍しく行藤は強気な物言いをした。

為家卿は驚き、

「そちゃ、気でもふれた訳ではあるまいな」

と声を裏返した。

さすがに心配になったのか辞去の折、

「無事に戻られよ」

為家卿はそういうぐらいが精一杯であった。




十月十九日。

博多の町は開戦前に何とか家財をまとめ逃げ出そうと人や馬で、辻という辻がごった返している。

謝国明の博多の屋敷も例外ではない。

「よいか、荷は分けて船に積め」

老境に達しつつあるとは思えぬ手際のよい差配ぶりは、かつて南宋でも音に知られた国際人らしい、英雄の空気すら漂ってくる。

「話の限り、やり方が残忍ゆえ、蒙古の本軍とは思われぬ」

恐らく高麗あたりから遣わされた軍であろう…というのが、謝国明の独自の見立てで、とにかく蒙古軍の軍律は、かの地では厳しいことで知られている。

一般的に略奪や鏖殺(おうさつ。みなごろし)は敵の抗戦が激しかった場合がほとんどで、実際は接収したあと登用できる者は敵側であっても重用し、民衆への狼藉や濫取(らんどり。軍公認の略奪)は固く禁じるという気風があったのを、謝国明は知っている。

それだけに、

「対馬での濫取は、およそ蒙古の本軍の軍律に合わぬ手法にございます」

と、筥崎に陣を構える少弐景資に意見を求められた折にも、謝国明はそう答えている。

「ではどういうことだ」

「蒙古には、侵略した国の軍を次の戦に駆り出して出張らせる、という手がありますれば、差し詰め高麗の軍を使って船を差し向けておるものかと推察いたします」

「…それなら辻褄が合う」

少弐景資はいう。

「われら筑前衆は、博多のそなたたち渡来人の商人のおかげで暮らし向きが豊かになった。それゆえ明かすが」

実は対馬の斎藤どのが、高麗語を話せる兵が数多おると知らせてくれたのだ、と少弐景資はいった。

「どうやら斎藤どのは武士には珍しく高麗語が分かるらしいのだ」

「…高麗となれば、日本の戦の作法は通じませぬ」

むしろ名乗らずにいきなり仕掛けるのが上策でございます、と謝国明は献策案をのべた。

「それは卑怯ではないのか?」

「異国を相手に卑怯も何もございますまい」

「分かった。折よく明日は持ち回りでこの景資が日ノ大将の役目ゆえ、その智恵この景資が拝借いたす」

景資は謝国明の手を取り、感謝の意をあらわした。



いっぽう。

博多の西側、住吉の集落に近い浜には菊池武房をはじめとする菊池党の百三十騎余が、鷹ノ羽の紋が浮かぶ縵幕を立て回し、陣を張っている。

「いつ攻め寄せるかは分からぬ、油断いたすな!」

武房の大音声の指示が飛ぶ。

そこへ。

「申し上げます」

竹崎五郎兵衛尉季長どのがまかり越しましてございます、という。

(あの継ぎはぎ、よう路銀がまかなえたな)

思わず吹き出した。

が、武房は快く面会を許可した。

竹崎季長が来た。

「菊池どの、ご無沙汰いたしております」

「そなた、路銀はいかがした」

「何とか方々から借りて、工面いたしました」

「で、用向きは?」

「陣借(じんがり)をいたしたくお許しを賜わりたく、まかり越しましてございます」

陣借とは文字通り陣地の一部を借りることである。

「そうか…貸してやりたいのは同じ肥後の国人ゆえ、やまやまなのだが」

武房は軍扇を指し、

「見ての通り手狭で、貸すことがかなわぬ」

川に挟まれた中洲で、確かに眺め渡すと人馬がひしめいている。

「ただ、むげには出来ぬ」

口添人を遣わすゆえ、少弐景資どのに頼んでみよ──と武房はいった。

「かたじけのうございます」

季長は辞去すると筥崎へと向かった。

「…たかだか五騎で馳せ来たるとは」

何とも勇ましいのう、と武房は他日、語っている。

申の刻。

今津の浜に蒙古軍の先遣隊が上陸を開始した、というので長垂山を所領とする原田勢の一部と小競り合いとなり、先遣隊は日没前に船へ退却した。

夜。

筥崎の少弐勢の陣で合議が開かれ、抜け駆けと名乗りの禁止、水際で食い止めること…の二点が確認された。

夜が、明けた。

蒙古軍主力は今津の海岸から毘沙門山を占拠、橋頭堡を設定せんとしたが、松浦党の生き残り兵の猛攻撃を受け、やむなく生の松原へ転進。

次に主力軍は姪浜に上陸、こちらは小田部と原の台地から原田隊が大量の矢を一斉に放ち、騎馬隊を駆使し猛然たる攻撃を加えた。

百道浜と鳥飼、赤坂に上陸した部隊は大友隊、少弐資時隊と激突。一進一退であったが息ノ浜に向かう船団を見て浮き足立ち、集団で騎馬を取り囲んでなぶり殺しにする蒙古軍の戦法に、戦いあぐねる始末であった。

別動の少弐経資隊は息ノ浜の高麗軍と会戦、こちらは脇から宗像隊が加勢しなんとか食い止めた。

鎌倉から肥後に派遣されていた安達隊は、博多の町で市街戦に持ち込んだ。

もとより二月騒動で鎌倉の市街での戦闘に馴れていた安達隊は、高麗兵に深傷を負わせ、指揮官金方慶に退却を余儀なくせしめることに成功した。

他方で。

戦況が良くなかったのは、赤坂である。

ここは少弐資時隊が持ち場であったが、銅鑼や太鼓に合わせ爆竹で馬を驚かせ、落馬した騎馬武者を震天雷(てつはう、と日本側に記述がある)という鉄炮弾で威嚇しながら討ち取るという戦術を駆使、少弐隊は逃げ腰で退散するというありさまであった。

甥の腑甲斐ない不始末に激怒した少弐景資は、菊池隊に前進を「日ノ大将」として命じ、当の菊池隊の菊池武房は、託麻頼秀と約二百三十騎余で鳥飼の主力本陣に突入を開始。

乱戦で砂浜の戦闘となり、次第に武房は一門の武士と離れ離れになった。

が。

累々と重なる蒙古兵の死体の下からムックリと武房が立ち上がり、

「ほれ、生きておる」

というが早いか、どこからか調達したのか布に幾つか蒙古の将校らしき首を包んだものを、打飼袋よろしく肩から襷掛けにしていた。

その頃。

住吉の鳥居で点呼を終えた竹崎隊の五騎は、筥崎まで駆けに駆け、少弐景資に追撃を申し出た。

景資は、

「抜け駆けは恩賞目当てと受け取られるゆえ、控えられよ」

と季長に自制を求めた。

が…。

「ここで逃してはまた何が起きるか分かりませぬ」

と季長は強くいい、景資は菊池隊への合流を条件に、竹崎隊の進発を認めた。

竹崎隊は行軍中の赤坂で菊池隊と遭遇、敵が鳥飼から早良へ転進したことを聞いた。

「ここは少弐どののお下知どおり動かれては?」

と武房は季長を止めようとしたが、

「大将を待っておっては先手を取られてしまう」

弓矢の道は敵に先んじるを以て賞とするではないか、と決然といい切り、

「われらはただ懸けるのみ」

いうが早いか季長主従は、麁原の蒙古軍めがけて進撃を始めた。

鳥飼の干潟あたりで旗指物の従兵は射取られ、季長も麁原の麓で馬を射られて落馬、みずからも手傷を負うて従兵に肩を借りる始末であった。

そこへ。

後から追い付いた杵島隊の白石通泰が塚原から到着、季長についていた三井資長(季長の義兄)とともに麁原山の蒙古軍を追い落とすという戦功を樹てた。

こうして見継ぎ見継がれ、互いを戦功の証人とし少弐景資の執筆(しゅひつ。記録担当)により引付(戦功の記録)の筆頭、すなわち一番手柄とされたのであった。



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