【完】『海の擾乱』
6 親王失脚
唐突ながら西園寺家出入りの商人に、謝国明という宋人がある。
謝国明は日ごろ博多に住まい、宋との交易を生業とする事業家なのだが、この異国人に行藤が遭遇したのは、仙洞御所への参内を終えて間もない時分のことであった。
(異国人とはいえ、我等と変わらぬ顔をしておる)
異国人は鬼だと鎌倉ではいうが、鬼ではなく人ではないか──と、行藤ははじめて会う外国人に、きわめて素直な感想をいだいた。
それは置く。
この文永三年当時、たまたま謝国明の貿易船は難波の津にあって、鎌倉への下り物を積む段取りが決まっていた。
西園寺家の当主は関東申次をつとめる実氏という好々爺で、よく仕事がら六波羅を訪ねることがある。
(実氏どのと顔見知りか)
西園寺実氏なら行藤も何度か取次や根回しの打ち合わせで、顔をあわせたことがある。
公卿衆にはめずらしくクセのない実直な人物で、幕府からの信望もある。
ちなみに実氏の娘は後嵯峨上皇の后で、後深草天皇と亀山天皇は外孫という関係になっている。
話を謝国明に戻す。
「二階堂どの」
行藤は後ろ袈裟に斬られたような驚きを感じたが、それは謝国明の声である。
「鎌倉への道中は陸でございますかな?」
「いかにも」
たまには目先を変えて船はいかがでございましょう──と、謝国明はいった。
「船…とな?」
「さよう。お武家さまがたはなかなか船にはお乗りになられぬが、いっぺん乗ると遮るものがない」
それゆえ病み付きになりますぞ、と謝国明はいう。
(藤子への土産話によさそうだな)
なんとはなしに、行藤ははじめての船で鎌倉へ下ることにした。
数日後。
払暁、六波羅の極楽寺時茂に挨拶を済ませ、鴨川から船で、さらに伏見で乗り換え桂川を下り、難波の津にたどり着いたのはその日の夕刻である。
(これは早い)
馬ならまだ山崎の辺りであろう。
すぐに謝国明の案内で回船に乗り、その日ははじめて船中泊となった。
「船は意外と寝るには心地よい」
気づいたのも、このときである。
明朝。
船は出帆した。
まず難波の津から泉州沖を紀伊に向けて進み、熊野でまず一泊した。
さらに熊野から尾鷲を抜け、志摩の半島をこえ、その日は伊勢で停泊。
伊勢からは三河の渥美の半島を左に見て、途中駿河の辺りで風待ちに遇ったが、馬だとひと月近くかかる旅が、半月足らずで和賀江島の向こうの、鎌倉二階堂が見えたのである。
「はじめての船旅で船酔いにもならなんだ二階堂どのは、船乗りに向いておりますなあ」
武士にしておくには惜しい、と謝国明はいった。
「その昔、連署の時宗どのがまだ幼き頃、伊豆山の神社へ参ると仰せられたので乗せたことがございますが、酔うて酔うて大変でございましてなあ」
謝国明の笑い話に、行藤は笑ってよいのかどうか、わからなかった。
いっぽう。
話に出た北条時宗はというと、幕府政所で執権の北条政村や侍所別当の安達泰盛、御内人の平頼綱と共に、渋い顔をして行藤から来た書状を眺めている。
「…やはり、宮様は政事をなさろうとしておられるのかも分かりませぬな」
重い口を時宗が開いた。
「されば斬ればよいではないか」
と、舅でもある安達は強気である。
「なれど別当さま」
一段下がってひかえていた頼綱はいう。
「下手に戦を起こせばまた承久のときのごとくなりましょう」
知らせた二階堂どのが六波羅から向かっておる以上、二階堂どのに任せるが道理かと…といった。
安達はますます苦い顔をした。
「わしは二階堂行藤などという御家人は聞いたことがない」
よくわからぬ若僧に幕府を託すような真似をするつもりか、といわんばかりの面構えである。
「なれど二階堂どのは上皇さまからのおぼえめでたく、大納言どのや前の関白どのとも親しい。むしろ」
それほどのお方の申し条も宮様がお受けなさらぬともなれば、それは仕方ございますまい…というのが、北条政村の判断である。
「なるほど」
この日の会議はこれで散会となった。
由比ヶ浜に上陸した行藤は、そのまますぐには動かずにいる。
というのも、
「今の鎌倉は安達どのと頼綱どのとが仲たがいをしておって、辻斬りもあると聞いております」
すぐには向かわれぬほうがよろしいかと、という謝国明のアドバイスがあったのである。
由比ヶ浜の謝国明の別邸に移ってしばらくすると、北条政村からの正式な下知が来た。
「頃合いはよろしいかと存じます」
謝国明の勧めもあり、このとき行藤は将軍のいる御座所に向け出発している。
行藤は馬は使わず、謝国明から借りた輿で御所に向かった。
服も狩衣である。
(直垂で行くよりはよかろう)
変に武家の姿で出歩いて、刺激しないようにといった行藤なりの配慮である。
で。
御所へ入ると、宗尊親王の御座所に通された。
宗尊親王との対面は、行藤が十三歳で鎌倉を離れたとき以来である。
「おぉ、行有のせがれか」
かつての近臣の子が京から戻ってきたのである。
「御所さまに拝謁をたまわるのは鎌倉出立のとき以来でございますれば、八年ぶりにございます」
「仔細は聞いたぞ」
こたびは、上皇さまの使いやというやないか──と、宗尊親王は、ひさびさの都からの来訪者に、上機嫌である。
「おそれながら上皇さまは鎌倉での御所さまのことを案ぜられておわします。是非とも御所さまおん自ら、書状なり使いなりをお差し立てあそばすのが賢明かと存じます」
「それが、もう…あかんのや」
「…何をもって無理と仰せられますか」
「実のところ御息所の密通の噂は幕府のでっち上げや」
あの良基という僧、ろくに祈祷もせず御息所の女官に手を出しよって、それが露見するとすぐ逐電しよってなあ…と宗尊親王はいい、
「じゃによって違うと麿はいうたのやが、北条の家来どもがどうも噂に尾鰭をつけて流したらしいのや」
あの頼綱という者がくさい、と麿は思うのやが──と宗尊親王はいった。
「…やはり」
「行藤、そりゃどういうことや」
実は、と京で持ちきりの話を行藤は話した。かつて将軍が追放されたようなことが再びあるということ、さらには日本に蒙古が攻めて来るということ──。
「さようなとき椀の中の水をかき回すかのような小さき争いは国を滅ぼすもとにございます」
むしろ御所さまは、京にお戻りあそばすほうが無難と心得ます…というのが行藤の見方であった。
「麿ではまとまらぬ、といいたいのか?」
「国をまとめられぬ鎌倉にあらせられるのは、虎の口をのぞくようなものでございます」
それがしも役が済み次第戻りまする、と行藤はいった。
「鎌倉を捨てよ、ということか」
行藤は無言で目配せした。
宗尊親王はすでにこのとき鎌倉を出る決意を固めていたらしい。
その後…。
行藤が辞去して間もなく、宗尊親王は頼綱の手で逆さまの網代輿に乗せられ、腰越から東海道に出て帰洛していった。
頼綱はさらに、
「二階堂行藤どのに、うかがいたき儀これあり」
として、政所に出頭し弁明せよと命じてきた。
(来たな)
行藤は直感した。
これを機に二階堂と藤子の久我家を潰して領地を得宗家で分ける算段らしい。
久我家は、池ノ大納言領と呼ばれる広大な土地を持っている。二階堂家も美濃に稲葉山という持ち山があり、稲葉山は街道にも近い。
「われにも手がある」
行藤は時頼の右腕であった青砥藤綱という御家人に声をかけた。
奉行までつとめたこの仁は、行藤の元服の烏帽子親であり、養育係として行藤は薫陶を受けたことがある。
時頼をして「清廉にして潔白なり」といわしめた人物を後見にすることで、生き残りを目指す戦略である。
青砥藤綱は行藤に対して、驚くべきことをいった。
「策などございませぬ」
行藤は訝った。
が。
「すべてをありのまま、お話しなされませ」
下手な小細工は却って身を危うくしかねませぬ──と、北条時頼をして「武士の鑑なり」と称された、この人物はいう。
「古来より愚公は山をも動かす、とも申します。行藤どのなら、これがいかなることかお分かりのはず」
愚公、山を遷す──古代の故事である。
山を動かそうとした愚公という者の愚直さに感銘した天帝が山を動かしたという話である。
「包まず隠さず、思うたまま申されればよろしゅうございましょう」
行藤には一抹の不安もあったが、青砥藤綱の意見を採ってみることにした。
訊問の場は、政所の会所である。
行藤は、遅れて座った。
上座には執権の北条政村、一段下がって連署の北条時宗、さらに下がって評定衆や引付衆が居並び、広縁に平頼綱がひかえている。
「遅うございますな」
頼綱に責められたが行藤は無視をした。
「二階堂どの、このたびは院の上皇さまの使いとして六波羅よりわざわざの下向、大儀である」
北条政村はねぎらった。
「しかるに」
嫌疑ありと申す者があり、疑うておるわけではないのだが、詮議と相成った──と、政村は続けた。
「ならば、ありのまま申し上げます」
このたびの鎌倉行きは上皇さまより直々のご沙汰にて、六波羅の南北の両探題も承知のことにございます、と行藤はいい、
「それがしは呼ばれたので御所に参り、鎌倉へ行けと命ぜられ、命ぜられるまま鎌倉へ参りました」
「そのようなことは分かっておる」
「頼綱ひかえよ」
時宗は頼綱を制した。
「それで何か罪を犯したのであれば、式目に照らして罰せられることは、道理と心得まする」
されど、と行藤はつづける。
「誰一人殺めもせず一文も盗まず鎌倉へ命のまま来たそれがしが罰せられるような、そんな理の通らぬ幕府であるならば、幕府などというものを、いっそ取り潰した方がよろしゅうございましょう」
一堂は騒然となった。
「もともと幕府は、右大将頼朝公が開き給いしものにございます」
頼朝公は全てに等しく正邪を下され、ゆえにわれら御家人も従って参りました──といい、
「それを今、御所さまが違うというにも関わらず密通などという嘘の噂をでっち上げ、御所さまを鎌倉より追放する陪臣がいる幕府を、信じよといわれたところでいったい誰が信じましょう」
そうであろう頼綱どの、と行藤は顔を向けた。
みるみる頼綱の顔が険しくなって、
「誰がそのような謀りごとをしたのだ!」
思わず、安達泰盛が大声を張り上げた。
「執権どのの御前でございますぞ、安達どの」
頼綱がいった。
行藤は構わず続ける。
「わが二階堂家も頼朝公以来、御家人として幕府を支え申して来たが、かような訳のわからぬ嫌疑をかけられるとは腹立たしき限りにございます」
それでも首をはねたくば、今この場にてこの刀で首を執権どの自らあげられませ、と黄金づくりの短刀を出し、
「これは上皇さまよりたまわった刀にございます」
これで執権どのに首をはねられても、恨みはございませぬ──と、行藤は締めくくった。
ざわついていた会所は静まり返ってしまっている。
が。
「二階堂どのの申し分、道理と存じます」
声をあげた若者がいた。
「それがしには二階堂どのの申し分が違っているとは思えませぬ」
見ると時宗の弟の北条宗政である。
「兄上も舅どのも、二階堂どのの申された道理が分からぬわけではありますまい」
ちなみに宗政は政村の娘を妻としている。
時宗は黙ったままである。
「もし二階堂どのの申したごとく、正義なき幕府であれば、この宗政には暇を賜わりたく存じます」
沈黙が続いた。
が。
破ったのは時宗である。
「…二階堂どのに、罪はござらぬ」
何か不服であったのか、頼綱は何かをいおうとしたが、
「これにて詮議は終わりじゃ」
政村が立つと一同は平伏した。
行藤が、頼綱の嫌疑に勝った瞬間である。
謝国明は日ごろ博多に住まい、宋との交易を生業とする事業家なのだが、この異国人に行藤が遭遇したのは、仙洞御所への参内を終えて間もない時分のことであった。
(異国人とはいえ、我等と変わらぬ顔をしておる)
異国人は鬼だと鎌倉ではいうが、鬼ではなく人ではないか──と、行藤ははじめて会う外国人に、きわめて素直な感想をいだいた。
それは置く。
この文永三年当時、たまたま謝国明の貿易船は難波の津にあって、鎌倉への下り物を積む段取りが決まっていた。
西園寺家の当主は関東申次をつとめる実氏という好々爺で、よく仕事がら六波羅を訪ねることがある。
(実氏どのと顔見知りか)
西園寺実氏なら行藤も何度か取次や根回しの打ち合わせで、顔をあわせたことがある。
公卿衆にはめずらしくクセのない実直な人物で、幕府からの信望もある。
ちなみに実氏の娘は後嵯峨上皇の后で、後深草天皇と亀山天皇は外孫という関係になっている。
話を謝国明に戻す。
「二階堂どの」
行藤は後ろ袈裟に斬られたような驚きを感じたが、それは謝国明の声である。
「鎌倉への道中は陸でございますかな?」
「いかにも」
たまには目先を変えて船はいかがでございましょう──と、謝国明はいった。
「船…とな?」
「さよう。お武家さまがたはなかなか船にはお乗りになられぬが、いっぺん乗ると遮るものがない」
それゆえ病み付きになりますぞ、と謝国明はいう。
(藤子への土産話によさそうだな)
なんとはなしに、行藤ははじめての船で鎌倉へ下ることにした。
数日後。
払暁、六波羅の極楽寺時茂に挨拶を済ませ、鴨川から船で、さらに伏見で乗り換え桂川を下り、難波の津にたどり着いたのはその日の夕刻である。
(これは早い)
馬ならまだ山崎の辺りであろう。
すぐに謝国明の案内で回船に乗り、その日ははじめて船中泊となった。
「船は意外と寝るには心地よい」
気づいたのも、このときである。
明朝。
船は出帆した。
まず難波の津から泉州沖を紀伊に向けて進み、熊野でまず一泊した。
さらに熊野から尾鷲を抜け、志摩の半島をこえ、その日は伊勢で停泊。
伊勢からは三河の渥美の半島を左に見て、途中駿河の辺りで風待ちに遇ったが、馬だとひと月近くかかる旅が、半月足らずで和賀江島の向こうの、鎌倉二階堂が見えたのである。
「はじめての船旅で船酔いにもならなんだ二階堂どのは、船乗りに向いておりますなあ」
武士にしておくには惜しい、と謝国明はいった。
「その昔、連署の時宗どのがまだ幼き頃、伊豆山の神社へ参ると仰せられたので乗せたことがございますが、酔うて酔うて大変でございましてなあ」
謝国明の笑い話に、行藤は笑ってよいのかどうか、わからなかった。
いっぽう。
話に出た北条時宗はというと、幕府政所で執権の北条政村や侍所別当の安達泰盛、御内人の平頼綱と共に、渋い顔をして行藤から来た書状を眺めている。
「…やはり、宮様は政事をなさろうとしておられるのかも分かりませぬな」
重い口を時宗が開いた。
「されば斬ればよいではないか」
と、舅でもある安達は強気である。
「なれど別当さま」
一段下がってひかえていた頼綱はいう。
「下手に戦を起こせばまた承久のときのごとくなりましょう」
知らせた二階堂どのが六波羅から向かっておる以上、二階堂どのに任せるが道理かと…といった。
安達はますます苦い顔をした。
「わしは二階堂行藤などという御家人は聞いたことがない」
よくわからぬ若僧に幕府を託すような真似をするつもりか、といわんばかりの面構えである。
「なれど二階堂どのは上皇さまからのおぼえめでたく、大納言どのや前の関白どのとも親しい。むしろ」
それほどのお方の申し条も宮様がお受けなさらぬともなれば、それは仕方ございますまい…というのが、北条政村の判断である。
「なるほど」
この日の会議はこれで散会となった。
由比ヶ浜に上陸した行藤は、そのまますぐには動かずにいる。
というのも、
「今の鎌倉は安達どのと頼綱どのとが仲たがいをしておって、辻斬りもあると聞いております」
すぐには向かわれぬほうがよろしいかと、という謝国明のアドバイスがあったのである。
由比ヶ浜の謝国明の別邸に移ってしばらくすると、北条政村からの正式な下知が来た。
「頃合いはよろしいかと存じます」
謝国明の勧めもあり、このとき行藤は将軍のいる御座所に向け出発している。
行藤は馬は使わず、謝国明から借りた輿で御所に向かった。
服も狩衣である。
(直垂で行くよりはよかろう)
変に武家の姿で出歩いて、刺激しないようにといった行藤なりの配慮である。
で。
御所へ入ると、宗尊親王の御座所に通された。
宗尊親王との対面は、行藤が十三歳で鎌倉を離れたとき以来である。
「おぉ、行有のせがれか」
かつての近臣の子が京から戻ってきたのである。
「御所さまに拝謁をたまわるのは鎌倉出立のとき以来でございますれば、八年ぶりにございます」
「仔細は聞いたぞ」
こたびは、上皇さまの使いやというやないか──と、宗尊親王は、ひさびさの都からの来訪者に、上機嫌である。
「おそれながら上皇さまは鎌倉での御所さまのことを案ぜられておわします。是非とも御所さまおん自ら、書状なり使いなりをお差し立てあそばすのが賢明かと存じます」
「それが、もう…あかんのや」
「…何をもって無理と仰せられますか」
「実のところ御息所の密通の噂は幕府のでっち上げや」
あの良基という僧、ろくに祈祷もせず御息所の女官に手を出しよって、それが露見するとすぐ逐電しよってなあ…と宗尊親王はいい、
「じゃによって違うと麿はいうたのやが、北条の家来どもがどうも噂に尾鰭をつけて流したらしいのや」
あの頼綱という者がくさい、と麿は思うのやが──と宗尊親王はいった。
「…やはり」
「行藤、そりゃどういうことや」
実は、と京で持ちきりの話を行藤は話した。かつて将軍が追放されたようなことが再びあるということ、さらには日本に蒙古が攻めて来るということ──。
「さようなとき椀の中の水をかき回すかのような小さき争いは国を滅ぼすもとにございます」
むしろ御所さまは、京にお戻りあそばすほうが無難と心得ます…というのが行藤の見方であった。
「麿ではまとまらぬ、といいたいのか?」
「国をまとめられぬ鎌倉にあらせられるのは、虎の口をのぞくようなものでございます」
それがしも役が済み次第戻りまする、と行藤はいった。
「鎌倉を捨てよ、ということか」
行藤は無言で目配せした。
宗尊親王はすでにこのとき鎌倉を出る決意を固めていたらしい。
その後…。
行藤が辞去して間もなく、宗尊親王は頼綱の手で逆さまの網代輿に乗せられ、腰越から東海道に出て帰洛していった。
頼綱はさらに、
「二階堂行藤どのに、うかがいたき儀これあり」
として、政所に出頭し弁明せよと命じてきた。
(来たな)
行藤は直感した。
これを機に二階堂と藤子の久我家を潰して領地を得宗家で分ける算段らしい。
久我家は、池ノ大納言領と呼ばれる広大な土地を持っている。二階堂家も美濃に稲葉山という持ち山があり、稲葉山は街道にも近い。
「われにも手がある」
行藤は時頼の右腕であった青砥藤綱という御家人に声をかけた。
奉行までつとめたこの仁は、行藤の元服の烏帽子親であり、養育係として行藤は薫陶を受けたことがある。
時頼をして「清廉にして潔白なり」といわしめた人物を後見にすることで、生き残りを目指す戦略である。
青砥藤綱は行藤に対して、驚くべきことをいった。
「策などございませぬ」
行藤は訝った。
が。
「すべてをありのまま、お話しなされませ」
下手な小細工は却って身を危うくしかねませぬ──と、北条時頼をして「武士の鑑なり」と称された、この人物はいう。
「古来より愚公は山をも動かす、とも申します。行藤どのなら、これがいかなることかお分かりのはず」
愚公、山を遷す──古代の故事である。
山を動かそうとした愚公という者の愚直さに感銘した天帝が山を動かしたという話である。
「包まず隠さず、思うたまま申されればよろしゅうございましょう」
行藤には一抹の不安もあったが、青砥藤綱の意見を採ってみることにした。
訊問の場は、政所の会所である。
行藤は、遅れて座った。
上座には執権の北条政村、一段下がって連署の北条時宗、さらに下がって評定衆や引付衆が居並び、広縁に平頼綱がひかえている。
「遅うございますな」
頼綱に責められたが行藤は無視をした。
「二階堂どの、このたびは院の上皇さまの使いとして六波羅よりわざわざの下向、大儀である」
北条政村はねぎらった。
「しかるに」
嫌疑ありと申す者があり、疑うておるわけではないのだが、詮議と相成った──と、政村は続けた。
「ならば、ありのまま申し上げます」
このたびの鎌倉行きは上皇さまより直々のご沙汰にて、六波羅の南北の両探題も承知のことにございます、と行藤はいい、
「それがしは呼ばれたので御所に参り、鎌倉へ行けと命ぜられ、命ぜられるまま鎌倉へ参りました」
「そのようなことは分かっておる」
「頼綱ひかえよ」
時宗は頼綱を制した。
「それで何か罪を犯したのであれば、式目に照らして罰せられることは、道理と心得まする」
されど、と行藤はつづける。
「誰一人殺めもせず一文も盗まず鎌倉へ命のまま来たそれがしが罰せられるような、そんな理の通らぬ幕府であるならば、幕府などというものを、いっそ取り潰した方がよろしゅうございましょう」
一堂は騒然となった。
「もともと幕府は、右大将頼朝公が開き給いしものにございます」
頼朝公は全てに等しく正邪を下され、ゆえにわれら御家人も従って参りました──といい、
「それを今、御所さまが違うというにも関わらず密通などという嘘の噂をでっち上げ、御所さまを鎌倉より追放する陪臣がいる幕府を、信じよといわれたところでいったい誰が信じましょう」
そうであろう頼綱どの、と行藤は顔を向けた。
みるみる頼綱の顔が険しくなって、
「誰がそのような謀りごとをしたのだ!」
思わず、安達泰盛が大声を張り上げた。
「執権どのの御前でございますぞ、安達どの」
頼綱がいった。
行藤は構わず続ける。
「わが二階堂家も頼朝公以来、御家人として幕府を支え申して来たが、かような訳のわからぬ嫌疑をかけられるとは腹立たしき限りにございます」
それでも首をはねたくば、今この場にてこの刀で首を執権どの自らあげられませ、と黄金づくりの短刀を出し、
「これは上皇さまよりたまわった刀にございます」
これで執権どのに首をはねられても、恨みはございませぬ──と、行藤は締めくくった。
ざわついていた会所は静まり返ってしまっている。
が。
「二階堂どのの申し分、道理と存じます」
声をあげた若者がいた。
「それがしには二階堂どのの申し分が違っているとは思えませぬ」
見ると時宗の弟の北条宗政である。
「兄上も舅どのも、二階堂どのの申された道理が分からぬわけではありますまい」
ちなみに宗政は政村の娘を妻としている。
時宗は黙ったままである。
「もし二階堂どのの申したごとく、正義なき幕府であれば、この宗政には暇を賜わりたく存じます」
沈黙が続いた。
が。
破ったのは時宗である。
「…二階堂どのに、罪はござらぬ」
何か不服であったのか、頼綱は何かをいおうとしたが、
「これにて詮議は終わりじゃ」
政村が立つと一同は平伏した。
行藤が、頼綱の嫌疑に勝った瞬間である。