【完】『海の擾乱』

7 異国の跫音(あしおと)

──行藤どの。

と、謝国明に呼び止められたのは、件の詮議から何日か過ぎた頃である。

「ずいぶん思い切ったことを仰せになられましたなあ」

歪んだ幕府ならば潰してしまえとは、相当開き直りましたな…と、この商人はいう。

「謝国明どの、それがしは思うたままをのべたまでにございますぞ」

正しきことを正しいといわれぬような幕府なら、なくなったほうがよいと感じたまでのこと──と、行藤はいった。

「しかし行藤どの」

今や行藤どののことは鎌倉じゅうあちらこちらで噂になっておりますぞ、と謝国明は顔を寄せ、

「あれでは鎌倉から追放されかねませぬ」

聞いてみると鎌倉での行藤の評判は最悪で、鎌倉武士にあるまじきことをいうというのが、たいがいである。

「別にわれは追放されても構わぬ」

されたらされたで、藤子とともに京でのどかに暮らすまでよ、と行藤は謝国明が驚くのも構わず、偽らざるところを明かした。

「行藤どのは変わっておられますなあ」

余り出世や力には興がなさそうにお見受けいたしますが…と謝国明はいい、

「では行藤どのは何を望んでおられるのか?」

「…何も望んでおらぬ」

天下の政事は執権どのや北条家のご一門に任せ、京で日がな花や月でも愛でながら暮らしとうござる──と、行藤はふっと目線を遠く投げた。

「…もしかすると行藤どのは、国家の大事に担ぎ出されるやも知れませぬな」

「?」

行藤は、怪訝な表情をつくった。

「かつて宋に趙匡胤という無欲の武官があり、その者は酔うて寝てる間に玉座に担がれて、宋の初代の皇帝となり申した」

くれぐれもお気をつけなされませ、と謝国明は行藤に釘をさすのであった。

幕府からの無罪の沙汰を待って、謝国明の船で難波の津まで戻った行藤は、川船で淀川をのぼり六波羅までたどり着いた。

二階堂屋敷に戻ると、藤子が奥から馳せ出てきて、

「お戻りなさいませ」

顔を上げると、どうしたことか、藤子がめずらしく涙ぐんでいる。

「…もう会えぬかと思うておりました」

「どうしたのだ」

「…鎌倉で処刑されたとの風聞が、京に届いておりました。間違いではと思い、お帰りを待ちわびておりました」

聞いたとたん行藤は弾けるように笑い、

「ならば死人か否か足でも触れてみよ」

そう容易くこの行藤は死なぬ──といい、すっかり泣きじゃくってしまっている藤子の肩を抱いた。

藤子も行藤の足に触れると感触が温かい。

「…確かに生きておられます」

「そうこなくては」

藤子らしくない、といって奥へあがった。

いっぽう。

京での行藤の言動の評価は高いもので、摂政の近衛基平は特に、

「よくぞ申しける」

と、日頃武士を誉めぬ性分であるにも関わらず溜飲の下がるような思いであったらしい。

で。

すぐさま行藤は探題屋敷の極楽寺時茂に報告した。

「問題は上皇さまへの奏上にございますが」

宮様がお戻りになられている以上、いかがしたものでございましょう、と行藤はいった。

「為家卿にきいてみてはどうか」

時茂はときどき、誰も思いつかないことをいう。

夕刻、行藤は今出川の冷泉家をおとなった。

「よう参られたの」

為家卿は少し具合がよろしくない様子ではあったが、快く迎えてくれた。

「そなたが鎌倉で討たれたと聞いたときなぞ、御所は騒ぎやったがな」

仮にも院の使いでもある。

それを処刑せんとするとは、平頼綱という者は御上をおそれぬ不逞者である…というのがもっぱらであったという。

「さような頼綱などと申す者を寵用する、連署の時宗どのも時宗どのや」

あれが得宗家のあるじでは先々執権となられた折なぞ先が思いやられまする、と為家卿はぼやいた。

「上皇さまへの奏上にございますが、為家卿にご指導をば、たまわりたく存じまする」

「この為家に万事、任せておかれよ」

と、為家卿は誰かをを呼びにやったようであった。

しばらくすると。

狩衣姿の若い公卿がやってきた。

(家経どのではないな)

見ると、明らかに一条家経ではない。

「近衛基平どのや」

行藤は仰天して平伏した。

「構わぬ。微行(しのび)や」

近衛基平といえば、若いながら亀山天皇の信頼を一手に集める摂政である。

「そこもとが行藤か」

名は聞いておる、と基平はいう。

「上皇さまへの奏上やが、この基平がともに仙洞御所まで参ろう」

誰にも文句はいわせぬ、と公卿にしては頼もしいことをいい、

「おそれ入りたてまつりまする」

「何の、そこもととこの基平はともに鎌足どのを祖とする同じ藤原の血であろう」

今後は基平を兄と思われよ、といった。

「身に余るありがたき仕合わせにございまする」

あとからきいたがまだ二十歳を過ぎて間がないらしかった。

(基平どのと時宗どのが組めば)

万が一にも蒙古が攻め寄せてきたところで何とかなるかもしれぬ、と行藤は内心痛感した。

参内の日取りを決めて藤子のいる屋敷へ帰邸したのは、とっぷり暮れてからであった。

参内の日。

行藤は束帯に騎馬で洛中を仙洞御所へ着いた。

すでに為家卿や基平がいる宸殿の、きざはしの袂に行藤は詰めている。

「一の宮の消息はどうやったのや」

「御息所さまの密通の風聞は、でっち上げにございました」

その上で行藤は幕府からの詮議の様子やら、道中聞き知った蒙古の話を隠さずに上申した。

「何と異国から攻め寄せるやも知れぬとな」

後嵯峨上皇は、宗尊親王のことより異国のことが気にかかったようである。

「来ぬにこしたことはございませぬが、万が一にも備えを固め、議をまとめおくことが、肝要かと心得まする」

「前に日蓮とやら申す僧が何やら妖しげな話を撒いておるやに聞いたが」

為家卿はいった。

「それがしは宋と往来するあきんどより、聞いておりまする」

「宋のあきんどとな」

「その者は博多に住まい、異国との交易を生業としております。戦となれば生業にもかかわりましょうゆえ、蒙古にも詳しきかと推察いたしまする」

「なるほど」

なれど、と為家卿は、

「まだ先のことでもあろうゆえ、ゆるゆると決めればよろしいかと」

行藤は一瞬、いやな予感がした。

為家卿が外交方針の決定で後回しを主張したのには、複雑な事情がある。

まず。

藤原氏にはいくつか流派があり、例えば行藤の二階堂家は為憲流という。

で。

為家卿の冷泉家は御子左(みこひだり)流といい、有名な藤原道長の子の長家にはじまる。

いっぽう。

宋との交易で利益を出している西園寺実氏は閑院流といい、こちらは道長のおじの公季からはじまっている。

宋との貿易で莫大な金銭を手にしている西園寺実氏は亀山天皇の外祖父にあたり、岳父として絶大な権力を持っている。

その西園寺実氏と対立する軸の一つに、和歌と蹴鞠の特技で大納言まで昇進した為家卿がある。

いわば。

技術力で出世してきた叩き上げの為家卿と、経済力と閨閥で権力者となった実氏とは、最初から相容れない面があったのである。

行藤から見た両者はまるで対極で、酒や宴など賑やかなことが好きな為家卿と、真面目を立体化したような実氏とではまるで違うのである。

(どちらも、悪い方ではないのだが)

ことが派閥となると意地の張り合いになってしまうらしかった。

さらに。

西園寺実氏は関東申次という、幕府からの奏上を取り次ぐ役職にあり、幕府とは職務柄つきあいがある。

したがって。

幕府にすれば西園寺家との関係を悪くすることだけは避けたかったようで、いくつかある対立軸の一つでもある冷泉家や久我家とつながる行藤は、下手をすると危険な存在になりかねない立場にあった。

それだけに亀山天皇の御前で開かれているこの廟議は、外交方針と同時に国政に関わる議題が扱われている。

行藤もそこまで明確ではないが、蒙古の問題は明快な意思の決定は必要だろうというのは理解している。

(おそらくそこまで決めようとは、為家卿も西園寺どのも、深くお考えではあるまい)

というのが、階の下で詰めている行藤の見立てであった。

そのとき、である。

御簾がゆらいだ。

「まずは鎌倉に聞く他あるまい」

と亀山天皇は、いうのである。

が。

若い公卿が進み出た。

一条家経である。

(余計なことはしゃべるなよ)

行藤の願いは、思わぬなりゆきで裏切られる形となった。

「使いが来てからでも遅くはございますまい」

と、議場にあった一条家経の一声で、結論はまさかの先送りとなった。

あからさまに落胆した様子の行藤は、

(これでは朝廷も滅ぶぞ)

といった様相で辞去しようとした。

「行藤、何を帰ろうとしておるのや」

見ると一条家経である。

「なにゆえあのようなことを…?」

「とうに行藤もわかっておると思うが」

われら朝廷は今や何も決められぬ、といい、

「どうせ幕府がみな決めるのや。公卿があのこの騒いでも、どうせ後からみな武家が覆してしまう」

今さら決めることを求めるのは無駄や、と投げ遣りな表情で、家経はいった。

「ええか行藤、わしら公卿衆は承久の戦からこのかた、政事のすべてを鎌倉に握られておる」

ゆえにわれらは飾り物に過ぎぬ、といい、

「せやが飾り物は飾り物なりの手がある」

みな鎌倉に任せておけば、御上や上皇様の責めは逃れられる…と家経はいう。

(無責任だな)

行藤には何とも、納得しがたかった。

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