HAPPY CLOVER 4-学園祭に恋して-
 午前の授業は清水くんの力を借りなくても板書をノートに写すことができた。心の中でニンマリとし、弁当をつついていると、売店からパンを購入して隣の席のソイツが帰ってきた。

「けど、綾香さんって確か、昔はどうしようもない男と付き合ってたって噂聞いたことある」

 小声だが興奮気味に話しているのは田中くんだ。彼の情報網も侮れない、と私は密かに耳をそばだてた。

 清水くんは着席するやいなやパンを頬張っている。今日は焼きそばパンとポテトサラダパンらしい。

「だから何?」

「いや、今はどうなのかなって、気になるじゃん!」

「別に。気にしたところでどうにもならないし。心配すんな。高校生なんか対象外だって」

 親友の夢を打ち砕くように短い言葉がテンポよく飛び出した。田中くんは水筒のお茶を飲んで反論を開始する。

「お前は知らないだろうけど、綾香さんはな、俺らの地元じゃ超有名人なんだ。綾香さんと一言会話を交わせたら死んでもいいと思ってる男がうじゃうじゃしてるんだぞ!」

「そんなわけないだろ」

 焼きそばパンを食べ終わった清水くんが、牛乳パックを手に持ち、氷のような冷たい声で言った。

「……確かに、今のはちょっと大げさだった」

 田中くんは気まずそうにつぶやく。

 噴き出しそうになるのをこらえながら私は焼き鮭を口に運んだ。

「だけどな、綾香さんは……」

「田中、『先生』って言えよ。失礼だぞ。それに俺が聞いた話だと、先生は相当キツい性格らしい。言葉には棘があって、冷たいことを言われたらその一言で死にたくなるヤツが続出するって」

「おまっ……、それサヤカさん情報?」

 一瞬、妙な沈黙があったが、清水くんは「ああ」と認めた。

「美しいものには棘があるっていうのは本当らしいぞ。気をつけろよ」



 ――は……!?



 思わずブロッコリーを丸飲みしてしまった。

 ――その言葉、そっくり返してやりたい。

 喉の奥でブロッコリーが悲鳴を上げながら食道をおりていく。私も悲鳴を上げたいが、それすらもできない。

 とりあえずペットボトルのお茶を口に含んだ。

 実際清水くんに文句を言いたくても、言えない事情が私にもある。

「気をつけて」

 夏休み、予備校へ向かう道の途中で、清水くんは私にそう言った。

 だが私はその意味がよくわかっていなかったのだ。今なら彼の忠告の意味が嫌というほどよくわかる。

 ――でも、あれって結局未遂だし。それに私が後ろめたく思う必要なんて全然ないし。

 そうは思うものの、清水くんにあの事件を説明することがどうしてもできない。説明しながら「でも諒一兄ちゃんが急に……」などと言い訳してしまう自分と、すかさず「だから言っただろ」と突っ込んでくる清水くんの不機嫌な顔がたやすく想像できるからだ。

 ぼんやりしていると、さっさと昼食を済ませた隣の男子二名は教室を出て行った。おそらくバスケをしにいったのだろう。彼らは昼休みになるとサッカー、バスケ、バレーボールの球技を日替わりで楽しんでいる。

 勿論、それはウチのクラスの男子全員というわけではない。

 男子も女子と同様にグループがいくつかあるらしく、いわゆるインドア派の男子は昼休みも教室内でたむろしていた。彼らは彼らで、体育会系の男子とは違う不思議な雰囲気を醸しだしている。

 その危うい感じの男子グループを何気なく観察していると、見慣れないスーツ姿の集団が廊下を通った。

「あ、小原先生、ちょっとウチのクラスに寄ってよ!」

 インドア派と言えば聞こえはいいが、実質オタクで構成されたグループの男子が、廊下へ顔を出して綾香先生を呼び止めた。クセのある口調だ。

 彼はオタクグループの中でも目立つ存在で、耳にピアスをつけ、割とスタイルがいい。ソイツが「チャラ男」と呼ばれていることは私も知っていた。勿論名前は知らないが――。

 チャラ男は綾香先生を強引に教室内へ引っ張ってきた。

「ねぇ、先生は彼氏いんの?」

 ――なぜ「いるの」と言えないのか!?

 チャラ男の口調に過剰反応してしまうのは、生理的に受けつけないタイプだからかもしれない。前髪が長すぎてうっとうしい。教員という職業は大変だな、と綾香先生に少し同情する。

 しかし無礼なチャラ男に、綾香先生は微笑んで見せた。

「ヒミツ」

「えー! 俺、すっげぇ気になるんだけど。じゃあ、どういう男がタイプなの?」

 彼は一体どうしたんだろう。これほど活き活きと話すチャラ男を見たのは初めてだった。周囲のクラスメイトも驚いた目で彼を見つめている。

「どういう……? うーん、綺麗な顔をした人かな。あとは優しい人でお願いします」

 綾香先生は怯む様子もなく、楽しそうに返事をした。その返事に先生を取り囲んでいたクラスメイトがそれぞれ歓声を上げる。

「え、じゃあ、俺とか、どう?」

 はにかみながら、チャラ男は言った。

「どうって、……何が?」

 ――うわっ、すっとぼけっぷりが尋常じゃない。

 思わず私も綾香先生の笑顔に見入ってしまう。

「いや、だから……」

 チャラ男の顔が急速に赤く染まった。そしてそれ以上言葉を続けることができなくなったらしい。

 綾香先生の表情がほんの少し動いた。

「そうだなぁ。とりあえずそのピアスはわざわざ学校につけてくる必要はないと思うな。似合っていても、校則違反じゃカッコ悪いでしょ」

「あっ……」

 チャラ男は慌てて自分の耳を手で覆う。

 それを見て綾香先生はにっこりと笑った。

「あと、授業は寝ないでちゃんと聞いてね。ホームルームも、ね?」

 ――うわぁ! ……これは。

 こくん、とチャラ男は首を縦に振った。彼のこれほど素直な反応は誰も見たことがないのではないか。

 それを見届けると綾香先生は満足そうに笑った。それからクラスの中を見渡して、スッと出て行った。

 彼女は私のこともしっかりと見たと思う。目が合った瞬間、ドキッとした。



 ――で、出た! 悪魔……!



 そうだ。あの微笑み、たぶん間違いない。

 きっと綾香先生は清水くんと同じく、心に悪魔を棲まわせている人なんだ。ということは、二人は似たもの同士ということ――?

 背筋がざわざわとして落ち着かなくなってしまった。

 でも綾香先生の言ったことは、教師としてチャラ男に向き合った場合、当然注意すべき事柄だ。

 チャラ男を見ると、ピアスを外して手鏡で前髪を整えていた。男のクセに自前の手鏡というところがナルシストっぽいと思ってしまう私は、ちょっと考え方が古いのだろうか。

 食べ終えた弁当を片付けて、トイレに行く。

 個室に入ったところでガヤガヤと女子グループご一行様がやって来た。

「やー、堀内(ホリウチ)くんがあの超キレーな教生にコクって、ソッコー爆死したって! なんかいろいろショックなんだけどー」

 ――堀内くん? 爆死?

 何のことかよくわからないが、教生が教育実習生の略だというのは察しがつく。

「え、エミって堀内とか好きなの?」

「うん。割と好きだった」

「あんなチャラ男! どこがいいの? ……てゆーか、あの先生、レベル高すぎじゃん。かわいすぎる! いきなりコクるとかありえねー!」

 ――チャラ男……ってことは堀内というのがチャラ男の名字か。

 個室内でこっそり脳にインプットした。声からすると他のクラスの女子のようだが、私にとってはありがたい噂話だ。

「でも堀内くんって、ああいうの好きなコにはたまんない魅力があると思うな。キモカッコいいみたいな?」

「キモくてカッコいいって、どっちかにしろって思わない?」

「だねー。中途半端」

「あーいいよ、皆にはわかんなくて。競争率低いほうが狙いやすいし」

「じゃ、エミは堀内で決定。修学旅行で絶対コクること! 私は……」

「菅原くんでしょ。はい、じゃあノリコは?」

「私は絶対清水くん!」

 ――え!?

 突然、雲行きが怪しくなってきた。個室の中が暑いのもあって、背中に冷や汗が噴き出す。

「えー、私も!」

「清水くん、マジカッコいいよね。彼女とか、いてもいいから……」 

「何、その沈黙」

「アイちゃんは妄想の世界にイッちゃったんだよ。しばらく帰ってこないから放っておいてあげて」

「でもあのクラス、学年で人気の男子が集まってるよね。一人くらいウチのクラスに分けてほしい」

「ホント、ホント」

 そこで予鈴がなった。

 バタバタと複数の足音が遠ざかり、トイレの中は急に静かになる。私はようやく個室から脱出することができた。

 ――「彼女とか、いてもいいから」か。

 洗面台の前でため息が漏れた。ここで他のクラスの女子グループが話していたことは、彼女たちだけでなく、この学園内女子の本音なのかもしれない。

 突然、動悸が激しくなった。



 ――私……何やってるんだろう?



 ますます「好き」という気持ちがわからなくなる。

 彼女たちのように私は清水くんを「好き」だと、皆の前で断言することができない気がする。それが臆病だからなのか、自信がないからなのか、本当は好きではないからなのか、自分でもよくわからない。

 ――でも、私、清水くんのことが……好き……ですよ?

 なんだ、この「?」は。誰に訊いているんだ、誰に。

 いつまでも鏡の前でボーっとしているわけにもいかない。気を取り直してトイレを出ようとしたとき、バンッとトイレのドアが開いて、駆け込んできた女子が私にぶつかった。

「あ、ごめん」

 反射的に相手がそう言った。振り返るとおさげが跳ねている。

 ――高梨さん?

 頑なに顔を伏せていた高梨さんは、見間違えているかもしれないが、たぶん目が真っ赤だった。泣いていたのかもしれない。

 気にはなったが、チャイムの音に背中を押されて、トイレを後にした。
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