キスの意味を知った日

「あいつ、どうしたい」


唐突にそう言われて、視線をそちらに向ける。

そこには、未だに気を失っている男がいた。

だけど、その顔を見た瞬間背筋が再び凍って、逃げるように顔を背けた。


そんな私を見て、櫻井さんはスタスタと私を抱えたまま事務所を出た。

薄暗い廊下には人の気配もなく、もうこの階には誰も残っていないと分かった。


ぼんやりする私を近くのソファに座らせた櫻井さんは、まるで子供と話すように私と同じ視線まで膝を折って同じ目線の所で止まった。

非常口の蛍光灯の明かりが、櫻井さんの顔を映し出す。


「お前は、ここにいろ」

「あのっ」

「なに」

「こんな事になって、あれですけど……この事は誰にも」


尻すぼみになってそう言った。

だって、こんな事誰にも知られたくない。

もう、思い出したくもない。


そう言って、ギュッとスカートの裾を握った私を見て、櫻井さんは一度ふっと息の下で笑った。

そして、ポンッと頭の上に手を乗せて。


「分かってる」


そう言って、一度優しく微笑んだ。

そして、そのまま私を残して事務所の中に入っていった――。
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