Temps tendre -やさしい時間-
「あ、これ。ふふふっ」

 こずえは思わず笑ってしまった。

「なんだよ、それ」

 その人はこっちを見てそう言った。

「うん、この匂いはケーキよ。ここへ来る前、死ぬ前に一番好きなものを食べてから死のうと思ったの。」

「そうか」

「全部食べきれなくて残しちゃったのが心残りだったけど、帰って食べられるわ。ありがとう」

 こずえはもう死ぬことを止めようと思った。

「せっかくのクリスマスイヴ。俺もケーキ食べたいかも」

「食べる?」

 こずえは聞いてみた。

「うん、食べたい」

 その人は子供のように答えた。少し淋しげな笑顔で。

「じゃあ、ウチ、来る? まだアタシが作ったケーキが残ってるから」

 こずえは小さな声で言った。

 その人は吸っていたタバコをさっきと同じように、指で空に向かって弾き飛ばした。

「お前、ケーキ作れるんだ。すげーな」

「でもお母さんにはまだまだって言われる」

「お母さんって?」

「あ、パティシエなの。小さなケーキ屋さんしてるの、ウチ」

「ふ~ん」

 その人はベンチから立上り、こずえに手を差し伸べた。

「行きましょう、お嬢様。ケーキを食べに」

 こずえはその手をにぎり、立ち上がった。

 

 
 ふたりは屋上から飛ぶことをやめた。
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