ボレロ - 第一楽章 -


「室長、先にお帰りになってください。私はもう少しかかりますから」


「ねぇ、蒔絵さん。二人でいるときは、以前のように名前で呼んで欲しいわ」


「それではけじめがつきません。私も名字で呼んでください。お願いします」


「そんなにかしこまらなくても……平岡さんだって宗一郎さんを、 

時には先輩って呼んでらっしゃるじゃない」


「そうですが、私と彼とは立場が違いますから……」


「蒔絵さんらしい考え方ね。でもね、私はあなたとはお友達でいたいの。 

他の人が知らない私を、蒔絵さんは知っているでしょう?

私だってあなたのプライベートに多少関わっているわ。

仕事を離れた話もしたいと思っているの。ねぇ、どうかしら」



頑固なまでに私との関係を保とうとしていた彼女の姿勢が、仕事を離れた

話もしたいと告げると、固い表情が崩れ小さなため息がもれた。



「……そうですね。私も誰にも言えないことを話したい時があります。 

珠貴さんになら、聞いていただけそうです」


「そうよ、恋の悩みとか、ねっ」



彼女の笑顔が私への答えだった。

それからだった、蒔絵さんが平岡さんとのことを話してくれるように

なったのは……

平岡さんとの交際の障害になっているのは、彼女の生活環境や仕事に関して

だと多少は聞いてはいた。

けれど、折々で少しずつ話してくれる蒔絵さんの事情は、平岡さんとの交際が

非常に難しいことを物語っていた。



「父も宝飾デザイナーでした。

自分の工房を持って、精力的に仕事をこなしていました。

生きていれば、もっと大きな仕事をしていたと思います」



蒔絵さんが中学生のとき、お父さまが病気で亡くなられたそうだ。

彼女の家族には、多少の蓄えと父親の多くのデザイン画が残されたのだと

静かに話してくれた。



「父が残した絵を形にしたいと思っていました。

芸術科のある公立の短大を選んで進学しましたが、 

それでも母は大変だったと思います」


高校卒業後、働きながらデザインの勉強をすると言う蒔絵さんを、 

進学しなさいと勧めてくれたのが母親だったそうだ。

卒業後勤めていたデザイン事務所の前で、道を探し立ち往生していた

平岡さんに蒔絵さんが声を掛けたのが出会いで…… 



「そのあと、偶然にも再会したんですよ。

あっ、あのときの、と声を掛けられて、名前を名乗られてビックリしました。

私たち、同じ名字だったんですから、彼も驚いていました。

こんな偶然ってあるんだねって」



平岡さんとの出会いを懐かしく思い出すように語ってくれた。



「珠貴さんと近衛さんは、お仕事の関係ですか?」


「それがねぇ、ふふっ……蒔絵さんたちに似てるのよ。

車のトラブルで困っていらしたみたいだったの。 

どうしましたかって声を掛けたのが始まり」


女同士と言うのは、こういった共通点があると急に親しみを感じるものだ。

互いの出会いを告げあったことがきっかけで、私と蒔絵さんとの仲はそれまで

以上に親しくなっていった。




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