紅睡蓮の墓守邸
紅姫は繋いだ手を離さないまま、天狗を東屋の西の門へと誘う。
西の門の両脇に控えた鬼丸と風切姫は、門の前で立ち止まった紅姫と天狗に深々と丁寧に頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、姫様。良いお眠りを心からお祈りいたします、天狗様」
「貴方に目覚めの無い安らぎがありますように、天狗様」
睡蓮邸の使用人たちの祝福の言葉に、天狗は穏やかに頷きを返す。
紅姫は一度止めた足を再開させて、一瞬だけ十澄に視線を向けた。その漆黒の瞳は十澄に付いて来るように促している。
先を行く天狗と紅姫から少し遅れて十澄はその後ろに付き従う。
西の門をくぐると、長い階段が緩やかな曲線を描いて池の畔まで続いている。優に人間の男が五人は横に並べる幅の階段を、殊更ゆっくりと十澄たちは下った。ぎしぎしと足元を支える木の軋む音と三種類の足音が静寂に響く。
東屋のすぐ下にある池の畔は半円に凹んだ地形で、水と大地の境界線ぎりぎりまで背の高い木々が茂っている。周囲を囲む自然によって十澄たちの位置からは池の全貌は見渡せない。池の大きさに反して狭さを感じさせる地形は、秘匿されたような雰囲気を醸し出している。
紅姫は着物の裾が濡れそうなほど池に近づくと天狗を見上げる。
「お主はこの地で永久に眠ることになろう。お主の眠りはわらわが守り、何にも邪魔はさせぬ。最後に言い残すことはあるか?」
「ありませんよ。大事なものは、とうにわしを置いて去って行きましたからな」
少しだけ寂しげに、晴れやかに天狗は笑う。千八百年も荒波に揉まれ続けた、たくましいその身体は徐々に光を透過し薄れてきていた。まるで生者が幽霊へと存在を変えるかのような現象だ。
十澄と紅姫は黙って彼が実体を失くしていくのを見守る。最後まで穏やかな笑顔で天狗は存在を大気の中に溶け込ましていく。頭上から降りかかる日光は天狗を照らさずに、緩やかに彼を光の中に受け入れている。
やがて完全に天狗の姿が掻き消えると紅姫は両手をくっつけて、椀の形を作る。その手の平の上に、徐々に大気から浮き出して実体を持ち始めるものがある。鮮やかな、血に近い赤色の睡蓮が一輪、紅姫の手に現れていた。
紅姫は愛おしげに、慈しむように睡蓮を眺める。
「美しい、睡蓮じゃ」
「……うん。ここまで深い赤はなかなか見ないよ。大変な生涯だったんだね」
時を見計らって傍に寄った十澄は、赤い睡蓮を見下ろして感嘆の吐息を洩らす。
紅姫の手にする睡蓮は、天狗の魂が変化した姿だ。色味の深さによって、その魂の宿す想いの強さが分かる。それは順風満帆な生涯だった者ほど薄く、波乱万丈な生涯だった者ほど濃くなる傾向にある。
しばらく睡蓮に見惚れていたが、十澄は紅姫の目元に光るものを見つける。そっと手を伸ばして十澄は彼女の涙をぬぐう。
「さぁ、見送ろう。十純」
ぽんぽんと低い位置にある頭を撫でると紅姫は無言で頷く。
こんな時、誰よりも長く生きて来た紅姫と二十二年しか生きていない十澄の関係は逆転する。一時だけ、紅姫は弱く幼い面を覗かせるのだ。それを慰めるのは出会ってから十澄の役割となった。
紅姫は池の畔に膝を突き、睡蓮を口元に持ってきてふっと息を吹きかける。ささやかな息にふわっと睡蓮は飛ばされて、池の水面に落ちて行く。小さな波紋を作って、睡蓮は池の奥へと運ばれる。
天狗の睡蓮が他の睡蓮たちに混ざって分からなくなると、紅姫は立ち上がる。
「あの睡蓮が白く染まるまで、長い時間が掛かろう。あの者の浄化はいくら墓池でも容易くはあるまい」
墓池、とは目の前に広がる巨大な池の名称だ。
紅姫は池の上に浮かぶ幾つもの睡蓮を視界に入れて、天を仰ぐ。
「また一つ、睡蓮の墓標が浮かんだ」
墓池に浮かぶ全ての睡蓮は、この地で眠る妖怪たちの墓標だ。寿命を持たない妖怪が安らかな死を望む時、彼らは睡蓮邸を訪れ紅姫の手によって墓池に浮かぶ。
睡蓮を彩る赤がいつしか白へと色を落とした時、その魂は穢れを浄化して死を迎えるだろう。それまで彼らは長い眠りに就くのだ。
十澄は表情に影を落とした紅姫をのぞき込んで、優しく微笑む。
「……戻ろう。そろそろ疲れたんじゃない? 風切姫と鬼丸も心配しているよ」
東屋の西の門で鬼丸と風切姫は今も二人の帰りを待っている。遠目に彼らの様子はうかがえないが、長い付き合いで彼らの心境は十澄にも簡単に予想できる。
表情に影を落としていた紅姫は東屋を振り返り、苦笑する。
「……やれやれ、あの者らは本当にいつまでも心配性じゃ。わらわは子どもではないと言っておるのに」
「その姿でそれを言われても……」
「むぅ、余計なお世話じゃ!」
実際の年齢は別にして、紅姫の外見は紛う方なき幼女である。頬を膨らませて抗議する姿は余計に幼さに拍車をかけて、可愛らしいとしか言い様がない。
ばしばしと腰の辺りを叩かれても痛みはなく、十澄は笑って紅姫の手を取り、墓池に背を向ける。
紅姫も文句は言わずに付いて来る。
「景、この度の客は良い魂を持っておったな」
「うん。珍しく、丁寧な妖怪だったよ」
東屋へと階段を上りながら、二人は意識を墓池に眠った天狗へと向ける。
紅姫はあの天狗のような妖怪たちを幾度も、死と言う安寧へと導いてきた。それは十澄と出会う以前の何千年も、出会ってからは十澄のいない時にも、独りで幾つもの魂を見送ってきたのだ。
眠りゆく者たちを見守る紅姫は、終わりのない役目を誇りとしている。しかし、独りで役目を果たす彼女の姿はいつも影を帯びているのだ。
その影を少しでも払拭したいと出会った頃から十澄は願ってきた。
「なぁ、景。今宵はまた来てはくれぬか?」
「今日の夜? いいけど……どうかした?」
「お主に見せたいものがあるのじゃ」
少し首を傾げて十澄は快く承諾する。今でも足しげく睡蓮邸に通い詰めており、本音を言えば睡蓮邸に住み付きたいくらいなのだが、家族の存在がそれを許さない。
そりの合わない家族の顔を脳裏に浮かべて、十澄は一瞬だけ顔に影を落とす。上り階段の先に鬼丸と風切姫の姿を認めて、すぐにそれは打ち消された。
「お帰りなさいませ、姫様、十澄様」
「今日はいつもより早かったですねえ、紅姫様?」
鬼丸がいつものように頭を下げ、風切姫が二人の周りをくるくると舞う。
紅姫は幼い容貌に大人びた微笑をたたえて言う。
「もう仕舞いじゃ。屋敷に戻るぞ」
「はぁい。鈴蘭の間で待っててくださいね、紅姫様。すぐにお茶を出しに行きますわ」
「風切姫、それなら私が……」
「駄目! 鬼丸はこけてお茶を零すじゃないの。貴方は鈴蘭の間を綺麗にしておきなさいよ!」
風になって飛んで行く風切姫を見送り、鬼丸が小さな背を丸めてうなだれる。残念ながら風切姫の指摘は正確で、誰も慰めの言葉は掛けられない。
十澄は苦笑するとその背を促す。
「ほら、そんなに落ち込まないで、鬼丸。君の仕事はちゃんとあるじゃないか」
「……そうでございますね。では十澄様、姫様をよろしくお願いいたします。我らは先に準備を整えて待っておりますので」
「うん。じゃあ、また後でね」
気分を切り替えた鬼丸は二人に一礼して素早く風切姫の後を追っていく。小柄な身体をせかせかと動かし、早足で去る様は見慣れたいつもの家令である。
主に仕えることを至上とする鬼丸を、紅姫と十澄は微笑ましげに見送った。
「さて、ぼくらもゆっくり帰ろうか」
「あまり早く帰るとあの者らも困るであろうな」
風切姫のお茶は遅れても構わないが、鈴蘭の間に戻った時に鬼丸の掃除が済んでいなければ、鬼丸は激しく落ち込むことだろう。その様がありありと想像できる。
十澄はできるだけ庭を散策して帰ることにして、紅姫の手を引く。
「十純?」
紅姫が立ち止まって動かない。十澄が振り返ると紅姫はやけに真剣な顔でつぶやくように言った。
「こんな毎日が続けば、楽しいものよ」
「……十純?」
普段と様子の違う紅姫に不安になった十澄は腰をかがめて、その美貌を覗き込む。
紅姫はそれ以上、何も言わなかった。
「ええっと、何かよく分からないけど……帰ろうか」
無理矢理手を引いて帰るのも気が進まないので、十澄は何気なく両手を伸ばす。男性にしては細い腕でも楽々と紅姫の身体は抱き上げられる。本当に小さな子どもにするように抱いて、十澄は間近で紅姫の様子をうかがう。
そんなに天狗との別れが辛かったのか、と心配していると紅姫がじろっと睨んできた。
「お主、わらわは子どもではないと何度言えば済むのじゃ?」
「えーと、ごめん」
「謝るならわらわを下せ」
「うん、ごめん」
「おい」
突き刺すような視線を間近で感じながらも、十澄は紅姫を離さない。そのまま紅姫を腕に収めて睡蓮邸の庭を飛び石に沿って歩き始める。
初めは紅姫も抗議の言葉を発していたが、徐々に諦めを強くする。
「……時々、お主はほんに強情じゃ」
「あはは、これがぼくだから仕方ないよ」
楽しそうに笑って十澄はその言葉を受け流す。
鈴蘭の間に戻るまでの時間稼ぎのために、時々飛び石の示す道順を逸れて庭を散策する。長年睡蓮邸に通い詰めいても全容を把握できない庭で、紅姫は奇怪なものを見つけるたびに説明をしてくれる。
『こんな毎日が続けば、楽しいものよ』
紅姫の先ほどの一言が十澄の脳裏をよぎる。ふとした瞬間に紅姫の顔を盗み見て、本当に彼女の言う通りだと思う。
――睡蓮邸の波乱に満ちつつも楽しい日常が、ずっと続けばいい。
西の門の両脇に控えた鬼丸と風切姫は、門の前で立ち止まった紅姫と天狗に深々と丁寧に頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、姫様。良いお眠りを心からお祈りいたします、天狗様」
「貴方に目覚めの無い安らぎがありますように、天狗様」
睡蓮邸の使用人たちの祝福の言葉に、天狗は穏やかに頷きを返す。
紅姫は一度止めた足を再開させて、一瞬だけ十澄に視線を向けた。その漆黒の瞳は十澄に付いて来るように促している。
先を行く天狗と紅姫から少し遅れて十澄はその後ろに付き従う。
西の門をくぐると、長い階段が緩やかな曲線を描いて池の畔まで続いている。優に人間の男が五人は横に並べる幅の階段を、殊更ゆっくりと十澄たちは下った。ぎしぎしと足元を支える木の軋む音と三種類の足音が静寂に響く。
東屋のすぐ下にある池の畔は半円に凹んだ地形で、水と大地の境界線ぎりぎりまで背の高い木々が茂っている。周囲を囲む自然によって十澄たちの位置からは池の全貌は見渡せない。池の大きさに反して狭さを感じさせる地形は、秘匿されたような雰囲気を醸し出している。
紅姫は着物の裾が濡れそうなほど池に近づくと天狗を見上げる。
「お主はこの地で永久に眠ることになろう。お主の眠りはわらわが守り、何にも邪魔はさせぬ。最後に言い残すことはあるか?」
「ありませんよ。大事なものは、とうにわしを置いて去って行きましたからな」
少しだけ寂しげに、晴れやかに天狗は笑う。千八百年も荒波に揉まれ続けた、たくましいその身体は徐々に光を透過し薄れてきていた。まるで生者が幽霊へと存在を変えるかのような現象だ。
十澄と紅姫は黙って彼が実体を失くしていくのを見守る。最後まで穏やかな笑顔で天狗は存在を大気の中に溶け込ましていく。頭上から降りかかる日光は天狗を照らさずに、緩やかに彼を光の中に受け入れている。
やがて完全に天狗の姿が掻き消えると紅姫は両手をくっつけて、椀の形を作る。その手の平の上に、徐々に大気から浮き出して実体を持ち始めるものがある。鮮やかな、血に近い赤色の睡蓮が一輪、紅姫の手に現れていた。
紅姫は愛おしげに、慈しむように睡蓮を眺める。
「美しい、睡蓮じゃ」
「……うん。ここまで深い赤はなかなか見ないよ。大変な生涯だったんだね」
時を見計らって傍に寄った十澄は、赤い睡蓮を見下ろして感嘆の吐息を洩らす。
紅姫の手にする睡蓮は、天狗の魂が変化した姿だ。色味の深さによって、その魂の宿す想いの強さが分かる。それは順風満帆な生涯だった者ほど薄く、波乱万丈な生涯だった者ほど濃くなる傾向にある。
しばらく睡蓮に見惚れていたが、十澄は紅姫の目元に光るものを見つける。そっと手を伸ばして十澄は彼女の涙をぬぐう。
「さぁ、見送ろう。十純」
ぽんぽんと低い位置にある頭を撫でると紅姫は無言で頷く。
こんな時、誰よりも長く生きて来た紅姫と二十二年しか生きていない十澄の関係は逆転する。一時だけ、紅姫は弱く幼い面を覗かせるのだ。それを慰めるのは出会ってから十澄の役割となった。
紅姫は池の畔に膝を突き、睡蓮を口元に持ってきてふっと息を吹きかける。ささやかな息にふわっと睡蓮は飛ばされて、池の水面に落ちて行く。小さな波紋を作って、睡蓮は池の奥へと運ばれる。
天狗の睡蓮が他の睡蓮たちに混ざって分からなくなると、紅姫は立ち上がる。
「あの睡蓮が白く染まるまで、長い時間が掛かろう。あの者の浄化はいくら墓池でも容易くはあるまい」
墓池、とは目の前に広がる巨大な池の名称だ。
紅姫は池の上に浮かぶ幾つもの睡蓮を視界に入れて、天を仰ぐ。
「また一つ、睡蓮の墓標が浮かんだ」
墓池に浮かぶ全ての睡蓮は、この地で眠る妖怪たちの墓標だ。寿命を持たない妖怪が安らかな死を望む時、彼らは睡蓮邸を訪れ紅姫の手によって墓池に浮かぶ。
睡蓮を彩る赤がいつしか白へと色を落とした時、その魂は穢れを浄化して死を迎えるだろう。それまで彼らは長い眠りに就くのだ。
十澄は表情に影を落とした紅姫をのぞき込んで、優しく微笑む。
「……戻ろう。そろそろ疲れたんじゃない? 風切姫と鬼丸も心配しているよ」
東屋の西の門で鬼丸と風切姫は今も二人の帰りを待っている。遠目に彼らの様子はうかがえないが、長い付き合いで彼らの心境は十澄にも簡単に予想できる。
表情に影を落としていた紅姫は東屋を振り返り、苦笑する。
「……やれやれ、あの者らは本当にいつまでも心配性じゃ。わらわは子どもではないと言っておるのに」
「その姿でそれを言われても……」
「むぅ、余計なお世話じゃ!」
実際の年齢は別にして、紅姫の外見は紛う方なき幼女である。頬を膨らませて抗議する姿は余計に幼さに拍車をかけて、可愛らしいとしか言い様がない。
ばしばしと腰の辺りを叩かれても痛みはなく、十澄は笑って紅姫の手を取り、墓池に背を向ける。
紅姫も文句は言わずに付いて来る。
「景、この度の客は良い魂を持っておったな」
「うん。珍しく、丁寧な妖怪だったよ」
東屋へと階段を上りながら、二人は意識を墓池に眠った天狗へと向ける。
紅姫はあの天狗のような妖怪たちを幾度も、死と言う安寧へと導いてきた。それは十澄と出会う以前の何千年も、出会ってからは十澄のいない時にも、独りで幾つもの魂を見送ってきたのだ。
眠りゆく者たちを見守る紅姫は、終わりのない役目を誇りとしている。しかし、独りで役目を果たす彼女の姿はいつも影を帯びているのだ。
その影を少しでも払拭したいと出会った頃から十澄は願ってきた。
「なぁ、景。今宵はまた来てはくれぬか?」
「今日の夜? いいけど……どうかした?」
「お主に見せたいものがあるのじゃ」
少し首を傾げて十澄は快く承諾する。今でも足しげく睡蓮邸に通い詰めており、本音を言えば睡蓮邸に住み付きたいくらいなのだが、家族の存在がそれを許さない。
そりの合わない家族の顔を脳裏に浮かべて、十澄は一瞬だけ顔に影を落とす。上り階段の先に鬼丸と風切姫の姿を認めて、すぐにそれは打ち消された。
「お帰りなさいませ、姫様、十澄様」
「今日はいつもより早かったですねえ、紅姫様?」
鬼丸がいつものように頭を下げ、風切姫が二人の周りをくるくると舞う。
紅姫は幼い容貌に大人びた微笑をたたえて言う。
「もう仕舞いじゃ。屋敷に戻るぞ」
「はぁい。鈴蘭の間で待っててくださいね、紅姫様。すぐにお茶を出しに行きますわ」
「風切姫、それなら私が……」
「駄目! 鬼丸はこけてお茶を零すじゃないの。貴方は鈴蘭の間を綺麗にしておきなさいよ!」
風になって飛んで行く風切姫を見送り、鬼丸が小さな背を丸めてうなだれる。残念ながら風切姫の指摘は正確で、誰も慰めの言葉は掛けられない。
十澄は苦笑するとその背を促す。
「ほら、そんなに落ち込まないで、鬼丸。君の仕事はちゃんとあるじゃないか」
「……そうでございますね。では十澄様、姫様をよろしくお願いいたします。我らは先に準備を整えて待っておりますので」
「うん。じゃあ、また後でね」
気分を切り替えた鬼丸は二人に一礼して素早く風切姫の後を追っていく。小柄な身体をせかせかと動かし、早足で去る様は見慣れたいつもの家令である。
主に仕えることを至上とする鬼丸を、紅姫と十澄は微笑ましげに見送った。
「さて、ぼくらもゆっくり帰ろうか」
「あまり早く帰るとあの者らも困るであろうな」
風切姫のお茶は遅れても構わないが、鈴蘭の間に戻った時に鬼丸の掃除が済んでいなければ、鬼丸は激しく落ち込むことだろう。その様がありありと想像できる。
十澄はできるだけ庭を散策して帰ることにして、紅姫の手を引く。
「十純?」
紅姫が立ち止まって動かない。十澄が振り返ると紅姫はやけに真剣な顔でつぶやくように言った。
「こんな毎日が続けば、楽しいものよ」
「……十純?」
普段と様子の違う紅姫に不安になった十澄は腰をかがめて、その美貌を覗き込む。
紅姫はそれ以上、何も言わなかった。
「ええっと、何かよく分からないけど……帰ろうか」
無理矢理手を引いて帰るのも気が進まないので、十澄は何気なく両手を伸ばす。男性にしては細い腕でも楽々と紅姫の身体は抱き上げられる。本当に小さな子どもにするように抱いて、十澄は間近で紅姫の様子をうかがう。
そんなに天狗との別れが辛かったのか、と心配していると紅姫がじろっと睨んできた。
「お主、わらわは子どもではないと何度言えば済むのじゃ?」
「えーと、ごめん」
「謝るならわらわを下せ」
「うん、ごめん」
「おい」
突き刺すような視線を間近で感じながらも、十澄は紅姫を離さない。そのまま紅姫を腕に収めて睡蓮邸の庭を飛び石に沿って歩き始める。
初めは紅姫も抗議の言葉を発していたが、徐々に諦めを強くする。
「……時々、お主はほんに強情じゃ」
「あはは、これがぼくだから仕方ないよ」
楽しそうに笑って十澄はその言葉を受け流す。
鈴蘭の間に戻るまでの時間稼ぎのために、時々飛び石の示す道順を逸れて庭を散策する。長年睡蓮邸に通い詰めいても全容を把握できない庭で、紅姫は奇怪なものを見つけるたびに説明をしてくれる。
『こんな毎日が続けば、楽しいものよ』
紅姫の先ほどの一言が十澄の脳裏をよぎる。ふとした瞬間に紅姫の顔を盗み見て、本当に彼女の言う通りだと思う。
――睡蓮邸の波乱に満ちつつも楽しい日常が、ずっと続けばいい。