箱の中の彼女


「この間は、名前も名乗らずにすみません…えと、オレ、孝太って言います。岡崎孝太」

 名乗ってくれたおかげで、ようやく美奈子は彼の名前を知ることが出来た。

 そういえば。

 自分も、彼に名乗っていなかったことを思い出す。

「「青木美奈子よ…改めてよろしくね」」

 と、言いながら。

 美奈子は、よろしくという言葉を、虚しいものに思い始めた。

 なぜ、こんなことを言ってしまったのだろうかと。

 この少年が、ここに来るのは──これが最後だろう。

 若々しくて一生懸命で。

 そんな孝太を見られるのは、きっとこれでおしまい。

 そう思ったら、とても寂しく思えてきた。

「あ、はい、ヨロシクおねがいしまっス!」

 だが。

 彼は、そんなことは気にもしていないように、体育会系的な元気な挨拶を返す。

「あ、それで…その」

 孝太は、突然神妙になって、居住まいを正した。

「あの…美奈子さんは、何か欲しいもの、ないですか?」

 そして──彼女の想像の、斜め上を駆け抜けていったのだ。

「「欲しい…もの?」」

 彼の意図が分からず、思わず言葉をオウム返す。

「はい…あの、オレ、本当に命を助けてもらって、ありがたいと思ってます。何かお礼をしたいんですが、女の人が何がいいか分からなくて」

 面食らっている美奈子に、孝太は自分の気持ちをまっすぐにぶつけてくる。

 本当に、まっすぐに。

 彼女の方が、照れてしまいそうだ。

「先輩にも聞いたんですが…オレたち馬鹿だから、全然分からなくて」

 その上、人に相談までしたというのだ。

 職場の先輩も、さぞやこんな相談をされて困ったことだろう。

「「ケーキで十分よ、ありがとう」」

 嬉しい切なさに、胸を締め付けられながら、美奈子は気持ちだけをありがたく受け取った。

 何か、物が欲しいわけではないのだ。

 なのに。

 孝太の背後に、『ガーーン』というショックの文字が流れて行くのが見えた。


 ※


「で、でも、なんか…なんかありませんか?」

 孝太は、一生懸命聞いてくる。

 それを断られたら、立つ瀬がないとでも思っているかのように。

「あの、力仕事とかでも構いません! オレ、力だけはあるんで!」

 何か動かすとか、抱えるとか。

 大して物もなく、家も古いなりにメンテナンスをしているので、お願いするようなことも、美奈子は思いつかなかった。

 ああ、そうだ。

「「それじゃあ…」」

 彼女が、思いついたことを口にしようとすると。

 孝太は、それに食いつくように身を乗り出した。

 一言一句、聞き漏らすまいという構えだ。

 その意気込みに、美奈子は表情が崩れるのを止められなかった。

 弟がいたら、こんなカンジなのだろうか、と。

「「それじゃあ…いつかまた、遊びに来て」」

 言った次の瞬間──孝太は、がっくりと肩を落としたのだった。

 彼の想像するお願いとは、とても遠いものだったようだ。

「そんなんじゃなくて…」

「「物よりも、話をしに来てくれると嬉しいわ…あなたからしたらオバサンだろうから、相手をするのはつまらないだろうけど」」

 食い下がる彼を、美奈子はやんわりと止めようとした。

 なのに。

「美奈子さんは、オバサンじゃありません!」

 突然。

 孝太は、ムキになってそこを否定にかかる。

「「あは…ありがとう。でも、28よ。孝太くんより10は上じゃないかしら」」

 うっと。

 彼は、一瞬言葉に詰まった。

 どうやら、本当に10は違うようだ。

「で、でも、違います…美奈子さんは、いい人です!」

 本人を目の前に、そしてオバサンの論点はどこかへと飛び去り、孝太は『いい人』という銅像の除幕式を行ったのだ。

 こそばゆさを隠せないまま、美奈子は一生懸命な彼を見る。

「「そう、ありがとう。じゃあ、そんな『美奈子さん』に、またいつか会いに来て…一度でいいから」」

 いつか。

 いつか──彼が、美奈子のことを忘れてしまう前に。
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