チェリとルイル
名前は、チェリ。
狩人トラフの娘。
下層にいる時に、彼に分かるのは森までの距離だ。
だから、森に入る狩人であるトラフの事は、昔からよく知っていた。
彼は、とても静かな狩人だった。
殺し過ぎることも荒らすこともなく、静かに森を愛していた。
だから──森も彼を愛した。
そんな男だからこそ、トラフには魔法使いの家を見ることが出来たのだ。
そんな男だからこそ。
森に捨てられていた娘を、拾ったのだ。
森と、自分の間に産まれた子だと信じて。
捨てたのは──誰あろう、ルイルだった。
正確に言えば、トラフに拾って欲しいと願って、彼の通り道に置いたのだ。
チェリを産んだのは、村の司祭の娘だった。
うまく思考を言葉に出来ない病にむしばまれていて、人目を気にした司祭は、彼女を家に閉じ込めていた。
そんな娘が、森に分け入った時には、既に臨月の状態だった。
ルイルは、その頃下層にいたため、森の外のことは分からず、彼女の相手が誰か分からなかった。
奇妙な言葉を口走りながら、森の奥へ奥へと司祭の娘は向かう。
ついには、木にすがりつくようにして。
女の子を産み落とした。
それが、チェリ。
森の中で、赤ん坊がただただ泣いているのを、ルイルは聞いた。
森の風を使って、小さい身を抱き上げると、女は何か言いたげに一度こちらを見た後、そのまま力尽きた。
女の遺体は土に埋めたが、泣き叫ぶ小さな赤子を埋めるわけにもいかない。
その頃すでに、師匠は最上層に行ってしまっていて、ニタとは壮絶な家の争い中だった彼に、赤子を守るのも難しく。
だから、森に愛された狩人に、託した。
それから十年。
上層にいる時は、彼女の成長を見ていた。
一生懸命、家の仕事を覚えようとするチェリ。
十年たって。
彼女は、父親と共に森に入るようになった。
父親と同じように──森に愛される娘になったのだ。
※
たとえ真実であったとしても、チェリはこの話を聞きたくないだろう。
彼女がトラフの事を父と呼んだ時、わずかに揺らぎ痛む自分の心のことなど、放っておけばいいのだ。
ただ、彼女のことは気にかけていた。
森の命の流れを、ルイルはあの時曲げた。
その子が育って行くのを、どこかでずっと心配していたのだ。
だから。
ニタが、彼女の記憶をいじった時、いつも以上に怒ってしまった。
あのひねくれ魔法使いが、己の欲望のままに、チェリを振りまわそうとすることが許せなかった。
彼女を招いたのも、ウサギを食べて下層に降りたのも、全てはニタを彼女からひきはがすため。
「どうか……しましたか?」
長い間、過去の記憶に捕らわれていた彼を、チェリは不安そうに見上げていた。
怒っていたことさえ、もう忘れてしまったかのように。
森を愛するように、人も愛そうとする。
その相手が、ニタであったとしても。
人の娘は、情緒でものを語る。
それを、ルイルはまだうまく把握できていない。
悲しませたり、怒らせたりするしか出来ないのだ。
彼が、まだうまく触れられない、愛の真理が必要なのか。
言葉にしがたい、胸の痛みの向こうにあるもの。
チェリのために、彼はその扉に触れようとした。
「ここで暮せばいい。私は、お前を嫌っていない」
できるだけ、険しくない表情で、強くない言葉を選び取った。
彼女が、一緒に住む人間に嫌われたくないと思うのならば。
ここに、ずっといればいい。
触れた扉から、ルイルが伝えたいと思った言葉は、それだった。
チェリは。
目を、丸くしていた。
その大きな瞳が、次第に困ったように揺らぐ。
「でも……あの家は、お父さんとの家だから…」
ルイルが──トラフに叶うはずなどなかった。
※
愛の扉は、若輩のルイルではびくともしない。
チェリの心ひとつ、動かすことは出来なかった。
もはや、手詰まりだ。
嫌がる彼女を、この家に閉じ込めておくか、ルイルがニタをどうにかするか。
前者は、精神的にとても難しく、後者は物理的に難しかった。
「でも……」
チェリが、揺らいだ瞳を笑みに変える。
「でも……ありがとう。心配してくれて。嫌いじゃないって……嬉しいです」
はにかんで、少し赤らめる頬。
幸せを、体現する笑み。
あ。
ああ。
扉が。
いま、一瞬扉が。
チェリの言葉と笑みには、たっぷりの愛が詰まっているのが見えた。
思えば。
ウサギも、彼女の愛。
また来たいと願った、彼女の思いも、間違いのない愛。
風が吹き抜けるように、ルイルはそれらを理解したのだ。
いま。
いや。
いままで彼は、チェリという愛に、ちゃんと触れていたのだ。
それとは、気づかなかっただけ。
そして。
自分もまた、彼女のために焼き菓子を用意し、また来てもいいと言った。
それが、愛だった。
あった。
ちゃんと、ここにあった。
その真理に触れるのは、こんなにも温かで嬉しいことなのか。
ルイルが緩めた瞳を見て、チェリはもっと幸せそうに笑った。
一度触れると、その心地よさに、もう一度触れたくなる。
どうすれば、たくさんの愛に触れられるのか。
生まれて初めて気づいた多くの事象を、ルイルは整理出来ていなかった。
そうか、と。
彼は、前に考えた二つの答えを、放り捨てた。
答えは、もうひとつ──あった。
狩人トラフの娘。
下層にいる時に、彼に分かるのは森までの距離だ。
だから、森に入る狩人であるトラフの事は、昔からよく知っていた。
彼は、とても静かな狩人だった。
殺し過ぎることも荒らすこともなく、静かに森を愛していた。
だから──森も彼を愛した。
そんな男だからこそ、トラフには魔法使いの家を見ることが出来たのだ。
そんな男だからこそ。
森に捨てられていた娘を、拾ったのだ。
森と、自分の間に産まれた子だと信じて。
捨てたのは──誰あろう、ルイルだった。
正確に言えば、トラフに拾って欲しいと願って、彼の通り道に置いたのだ。
チェリを産んだのは、村の司祭の娘だった。
うまく思考を言葉に出来ない病にむしばまれていて、人目を気にした司祭は、彼女を家に閉じ込めていた。
そんな娘が、森に分け入った時には、既に臨月の状態だった。
ルイルは、その頃下層にいたため、森の外のことは分からず、彼女の相手が誰か分からなかった。
奇妙な言葉を口走りながら、森の奥へ奥へと司祭の娘は向かう。
ついには、木にすがりつくようにして。
女の子を産み落とした。
それが、チェリ。
森の中で、赤ん坊がただただ泣いているのを、ルイルは聞いた。
森の風を使って、小さい身を抱き上げると、女は何か言いたげに一度こちらを見た後、そのまま力尽きた。
女の遺体は土に埋めたが、泣き叫ぶ小さな赤子を埋めるわけにもいかない。
その頃すでに、師匠は最上層に行ってしまっていて、ニタとは壮絶な家の争い中だった彼に、赤子を守るのも難しく。
だから、森に愛された狩人に、託した。
それから十年。
上層にいる時は、彼女の成長を見ていた。
一生懸命、家の仕事を覚えようとするチェリ。
十年たって。
彼女は、父親と共に森に入るようになった。
父親と同じように──森に愛される娘になったのだ。
※
たとえ真実であったとしても、チェリはこの話を聞きたくないだろう。
彼女がトラフの事を父と呼んだ時、わずかに揺らぎ痛む自分の心のことなど、放っておけばいいのだ。
ただ、彼女のことは気にかけていた。
森の命の流れを、ルイルはあの時曲げた。
その子が育って行くのを、どこかでずっと心配していたのだ。
だから。
ニタが、彼女の記憶をいじった時、いつも以上に怒ってしまった。
あのひねくれ魔法使いが、己の欲望のままに、チェリを振りまわそうとすることが許せなかった。
彼女を招いたのも、ウサギを食べて下層に降りたのも、全てはニタを彼女からひきはがすため。
「どうか……しましたか?」
長い間、過去の記憶に捕らわれていた彼を、チェリは不安そうに見上げていた。
怒っていたことさえ、もう忘れてしまったかのように。
森を愛するように、人も愛そうとする。
その相手が、ニタであったとしても。
人の娘は、情緒でものを語る。
それを、ルイルはまだうまく把握できていない。
悲しませたり、怒らせたりするしか出来ないのだ。
彼が、まだうまく触れられない、愛の真理が必要なのか。
言葉にしがたい、胸の痛みの向こうにあるもの。
チェリのために、彼はその扉に触れようとした。
「ここで暮せばいい。私は、お前を嫌っていない」
できるだけ、険しくない表情で、強くない言葉を選び取った。
彼女が、一緒に住む人間に嫌われたくないと思うのならば。
ここに、ずっといればいい。
触れた扉から、ルイルが伝えたいと思った言葉は、それだった。
チェリは。
目を、丸くしていた。
その大きな瞳が、次第に困ったように揺らぐ。
「でも……あの家は、お父さんとの家だから…」
ルイルが──トラフに叶うはずなどなかった。
※
愛の扉は、若輩のルイルではびくともしない。
チェリの心ひとつ、動かすことは出来なかった。
もはや、手詰まりだ。
嫌がる彼女を、この家に閉じ込めておくか、ルイルがニタをどうにかするか。
前者は、精神的にとても難しく、後者は物理的に難しかった。
「でも……」
チェリが、揺らいだ瞳を笑みに変える。
「でも……ありがとう。心配してくれて。嫌いじゃないって……嬉しいです」
はにかんで、少し赤らめる頬。
幸せを、体現する笑み。
あ。
ああ。
扉が。
いま、一瞬扉が。
チェリの言葉と笑みには、たっぷりの愛が詰まっているのが見えた。
思えば。
ウサギも、彼女の愛。
また来たいと願った、彼女の思いも、間違いのない愛。
風が吹き抜けるように、ルイルはそれらを理解したのだ。
いま。
いや。
いままで彼は、チェリという愛に、ちゃんと触れていたのだ。
それとは、気づかなかっただけ。
そして。
自分もまた、彼女のために焼き菓子を用意し、また来てもいいと言った。
それが、愛だった。
あった。
ちゃんと、ここにあった。
その真理に触れるのは、こんなにも温かで嬉しいことなのか。
ルイルが緩めた瞳を見て、チェリはもっと幸せそうに笑った。
一度触れると、その心地よさに、もう一度触れたくなる。
どうすれば、たくさんの愛に触れられるのか。
生まれて初めて気づいた多くの事象を、ルイルは整理出来ていなかった。
そうか、と。
彼は、前に考えた二つの答えを、放り捨てた。
答えは、もうひとつ──あった。