Secret Lover's Night 【完全版】

淡い恋心

ほんの少し開いた闇色をしたカーテンの隙間から、正反対の色をした朝日が差し込む。
浮かぶ意識の中で胸にかかる圧迫感に眉根を寄せ未だ重い瞼を持ち上げると、艶やかな黒が腹部を流れているのが見えた。

「重っ・・・た」

そっと首だけを持ち上げると、完全に自分の上に乗ってしまっている千彩の姿が見える。落とさぬようにしっかりと抱き締め仰向けの状態から横向きに変えるも、しっかりと絡み付いた腕と足が「そう易々とは離さない!」と告げていた。

「そんな頑張らんでも逃げませんよーっと」

するりと抜け出し、晴は身動ぐ千彩を宥めるようにゆっくりと頭を撫でた。
艶やかな黒にそっと口付け、朝の挨拶をする。


「おはよう、千彩」


ソファの上で抱き締め合って眠った二人に、初めての朝が来た。


勢いよくカーテンを左右に開くと、その小気味良い音と一気に差し込む光に千彩がモゾモゾと身動ぐ。
その様子をテーブルに頬杖をつきながら眺めていると、とうとう完全に背を向けてしまった千彩の腕が、何かを探して宙を彷徨い始めた。

自分を探しているのだろうことは安易に予想がつく。それが堪らなく嬉しくて。頬を緩ませながら腰を浮かせ、晴は丸いテーブルをひと跨ぎにした。

「千彩、ここやで」
「んー」

声とは逆の方向へと手を伸ばす千彩は、覚醒どころか未だ夢の淵にいるのだろう。言葉にならない声を押し出しながら、ゴロリと仰向けになって両手の甲でゴシゴシと目を擦り始めた。
それをゆっくりと止め、晴は出来る限り優しい声音で言葉を紡ぐ。

「おはよう。朝やで、千彩」
「にゃー」
「ははっ。にゃーって」

両手を天井に向かって伸ばしながらそう叫ぶ千彩の腕を取り、引っ張り起こして未だ眠そうな顔を覗き込む。すると、堅く閉じられたままだった千彩の目がパチリと開いた。

「はるぅ」
「はいはい。おはようさん」

甘えた声で名を呼ばれ、嬉しくない男がいるわけがない。そう自分に言い聞かせ、緩む頬の言い訳にする。

「顔洗っておいで。朝ご飯買いに行こう」
「はぁーい」

幼子のように手を挙げて返事をする千彩をヨシヨシと撫で、洗面所へと促す。
その間に晴は自分の着替えを済ませ、千彩のために少し小さめのTシャツを引っ張り出した。
コンビニまでほんの2・3分の距離と言えど、やはり少数でも人の目に触れる。ぶかぶかのTシャツでは不格好だろうと思ったのだ。

「はるー、洗ったよ」
「ん。ほなこれに着替え…って!おい!」

一応は止めはしたのだ。けれど、それよりも千彩の潔さの方が勝っていて。

あっと言う間に晒される、白い肌。下手に止めてしまったものだから、それを晒した状態で千彩は首を傾げた。

「もー」
「もーって?」

渡し掛けていたTシャツを広げて無理やり千彩の頭を押し込み、晴は無言でその場を去った。その後に、ペタペタと足音が続く。

「はるー?」
「待って。俺も顔洗うから」

振り返りもせずそう答えると、ペタリと背中に密着する柔らかい体。すぐさま腰に腕が回され、逃げるどころか完全に捕らえられてしまう。

「もー。こらこら」
「はるぅ」

脇から顔を覗かせる千彩の瞳が潤んでいる。ふぅーっと大きく息を吐き、晴は身を屈めてそっと額に口付けた。

怒っているわけではない。晴の方が少し照れていただけなのだ。

「わかったからちょっとだけ離れてくれる?」
「いや」
「困った子やなぁ。顔だけ洗わせてや」
「はるぅ」

ぐすり、と千彩が鼻を啜り始める。困ったように眉尻を下げ、弱々しい声を押し出す千彩がどうにもこうにも可愛くて堪らない。

「ちぃっ」
「きゃっ」

勢いよく抱き付き、左右に体を揺らしてはしゃぐ千彩を喜ばせる。揺れる度にきゃーっと楽しげな声を上げる千彩の瞳には、もう涙の色はなかった。

ホッと安堵の息を吐き、気が済んだ晴は動きを止めてぎゅうっと柔らかな千彩の抱き締める。

「この甘えん坊め」
「はる…怒ってない?」
「怒ってへんよ。あまりに潔く脱ぐからびっくりしただーけ」
「へへっ」

照れくさそうに笑うと、千彩はグリグリと胸に額を擦りつける。そんな甘えん坊の頭をゆっくりと撫でながら、晴はふと思い返した。

「ちぃ」
「んー?」
「お前、下着は?」
「ないよ?」
「ないよって…」
「だってドレス着て来たもん」

そう言えば…と、今更ながら思い出す。ドレスのままここへ連れて来た。オフショルダーのものだっただけに、着けていなくても不思議ではない。

「着替えは?」
「持って来なかった」
「ですよねー。ははっ」
「はーい」

元気よく手を挙げる千彩に、デコピンを一発くれてやる。
大袈裟に痛がりながら、甘えん坊が再び擦り寄ろうと手を伸ばして来る。それを片手で押し返し、取り敢えず洗顔だけは済ませることが叶った。

タオルを片手に歩く晴の後ろを、目をキラキラと輝かせた千彩が続く。それを振り返り、晴は両頬を指先で抓んで少し引き伸ばした。

「ほほひくの?ほんひに?ひひゃい?」
「ちぃは留守番」
「へー!」
「るーすーばんっ」
「むぅー!」

ゆっくりと手を離しそのままポンポンと軽く頭を叩くと、不満げに口を尖らせた千彩がむぅっと黙り込み、ソファにドスッと音を立てて腰掛けた。

「スーパー行ってくるわな?」
「・・・」
「誰か来ても開けたあかんで?」
「・・・」
「直ぐ帰るから、ええ子にしててな?」
「…うん」

漸く聞こえた返事に、頬が緩んだ。
いくらなんでも、この状態で外を連れ歩くわけにはいかない。帰ったらネットで取り敢えずの物を揃えてやろう。と思いながら、晴は財布と携帯をポケットに押し込んだ。

「ちぃ、いってらっしゃい、は?」

ふくれっ面で足をバタつかせていた千彩が、ふいっと顔を背ける。退屈凌ぎになれば…と、リモコンに手を伸ばし、滅多に点けることのないTVを点けてやる。

「あー、アニメやってるわ」
「ちさこれ見てる!行ってらっしゃい!」

アッサリとそう言われ、どうにもアニメキャラクターに負けた感が拭えない。
けれども、ソファの上で膝を抱えてTVに見入る千彩の姿は、それはそれは微笑ましいもので。静かに部屋を出てマンションの階段を降りながら、晴は出掛けに掴んできたキャップを目深に被った。

「何作ろっかなー」

料理は嫌いではない。寧ろ、好きな方だ。越して来る前は、よく当時の恋人を招いて手料理を振る舞った。

と、そこでまた思考が引っ掛かる。


「あー…リエ。どうするかなー、あれ」


昨夜電話口で泣いていた…と言うか、喚いていた恋人を思い出すものの、今の状況で「会いたい」などとは到底思えるはずもなく。寧ろ、面倒なのでこのままそっとしておきたい。

けれど、疑り深い彼女のことだ。放っておいたら何をするかわからないのも悲しい事実。


「しゃーない…か」


あれ以降放置状態だった携帯の電源を入れてみれば、届くメールも留守電の通知も、見事に恋人の名前で埋め尽くされていて。
ここまでせんでも…と、深いため息と同時にスーパーの自動扉をくぐり抜けた。
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