EVER BLUE

夫婦の想い

季節はすっかり秋に移り変わり、窓から見える景色も落ち着いた色合いに染まっている。妊娠25週を超えても悪阻の治まらない千彩は、三ヶ月を超える入院生活を終え、漸く自宅に戻れたところだった。

ソファに横になりながらお気に入りのアニメチャンネルを見るも、時折襲ってくる吐き気にアニメに集中出来ない。

ヒーローが悪の大魔王と死闘を繰り広げている自分的重要シーンで再び吐き気に襲われ、千彩はうっと口元を押さえて眉を顰めた。

「気分悪いか?」
「んー」
「よしよし」

キッチンで昼食の準備をしていた晴人がその様子に気付き、慌てて駆け寄って背中を上下に摩る。

「なかなか治まらんなぁ」
「うーもう病院イヤー」
「退屈やったもんな。傍おったるからそんな顔しぃな」

今回の退院に、担当医である平畑は渋い顔をしていた。

どうやら千彩自身の成長が年齢に追い付いていないらしく、身体が妊娠を受け入れられていないのだとか。中学生が妊娠したと思ってくれと言われ、晴人は苦々しい表情で「はぁ…」と答えるしか出来なかった。

確かに、見た目は高校生くらいだと思う。下手をすれば中学生にでも見えそうなくらい幼い千彩は、同じく精神的にもかなり幼い。

けれども、身体機能的には十分に育っているものだとばかり思っていた晴人は、平畑の言葉が信じられなかった。

「落ち着いたら昼にしよか」
「ちさ要らない」
「そんなん言うたあかん。ちょっとでええから一緒に食べよ。な?」

嘔吐を嫌がる千彩は、殆ど食べ物を口にしようとしない。大好きなプリンでさえも嫌だと首を振るのだから、それは相当なものなのだろうと晴人も思っていた。

けれども、それを続けてしまえばまた病院に逆戻りになる。何とか家に居させてやりたいと思う晴人は、喉越しが良く栄養価の高いものをいくつかピックアップし、自慢の腕を奮っていた。

「俺、頑張って作ったんやで?」
「要らない」
「そんなん言うなや、千彩ぁ」

顔を背けた千彩に甘えるように擦り寄ると、再びうーっと呻き声が洩れた。

「ほら。食べん言うから子供が怒ってるわ」
「怒ってないもん」

膨れっ面をする千彩の頬に口付け、晴人はソファに横たわったままの体をギュッと抱き締めた。

「ちーさー」
「イヤやもん」
「ちぃちゃん」
「イヤー」
「ママ」

「ママ」という単語に、千彩の抵抗がピタリと止まる。唇を尖らせたまま瞳を伏せ、まだ迫り出す気配のないお腹をゆっくりと撫でた。

「べいびーもう大きくならないん?」
「なるよ。心配要らん」
「先生何て言ってた?」
「元気です言うてたで」

小さいけれど、お腹の子供は元気に育っている。それは問題無いだろうと平畑は言っていた。

けれど、千彩の体がいつまでもつかはわからない。そう続けられ、その時から晴人は「失うかもしれない恐怖」に怯えている。

愛しい千彩。
何を代償にしても惜しくないほど愛している千彩を失うことは、晴人にしてみれば世界が終わるも同然だ。

「ちゃんと食べてや。ちょっとでええから」
「食べたらべいびー大きくなる?」
「なるよ」

保証はないけれど。と、言葉に出せないまま、晴人は千彩の体をゆっくりと起き上がらせた。
どうやら納得してくれたらしい千彩の前に昼食を運び、そっと頭を撫でてやる。

「無理に食べんでええから、食べれるだけな」
「うん」

渋々箸を進める千彩を見ながら、晴人も同じ昼食を口に運ぶ。
病院食とまではいかないけれど、普段食べていたものよりは薄味のそれに、千彩はうぅんと箸を止めた。

「はるのおいしいご飯が食べたいよぉ」
「もうちょっとの我慢や」
「うぅ…」

何もかもを規制され、千彩の不満は溜まる一方で。晴人としてもそれを何とか解消してやりたいとは思うのだけれど、外にも出られず、食事もままならない千彩には、楽しみは横になって見られるアニメチャンネルくらいしかない。それも大事な場面で吐き気に襲われるのだから、千彩としてはたまったものではない。

「べいびー大変やね」
「せやなぁ」
「早く産まれてきたらいいのになー」

まだ少し膨らんだだけのお腹を摩りながら、千彩はふぅっと息を吐いた。そこに手を添え、晴人はにっこりと微笑む。

「もうちょっとやから頑張ろうな」
「うん」

息が詰まるような窮屈な生活も、子供のためだと思えば頑張れる。
晴人から見ればまだまだ精神的に幼い千彩だけれど、その中にはしっかりと「母性」が目覚めている。

「もう要らんか?」
「まだ食べる」
「食べれるんか?」
「うん。べいびーのために頑張る」

渋々箸を進める千彩の頭をゆっくりと撫でながら、晴人は思う。少し甘え癖が直ったな、と。

「ママになるんやな、千彩」
「ん?」
「いつまでも子供や思うてたけど、成長するんやな」

寂しげな晴人の表情を見て、千彩はピタリと箸を止めてゆっくりと立ち上がった。

「どないした?」
「はる、だっこ」

両手を伸ばす千彩を抱き、膝の上に乗せる。悪阻のせいで体重が落ちた千彩は、子供を膝に乗せているように軽い。

「軽くなったなぁ」
「マリちゃんみたいになれるかな?」
「あんなんならんでええ」
「はるはマリちゃんのこと好きやって、前にけーちゃんが言ってたよ?」

余計なことを…と心の中で恵介に恨み言を言いながら、晴人は後ろからそっと千彩の体を腕の中に閉じ込めた。

「俺が好きなんは千彩や」
「ちさのはると?」
「当たり前やろ」
「べいびーが産まれても、ちさのはるとでおってくれる?」
「当たり前や。俺は千彩だけのもんやで」

頬を寄せはっきりとそう告げてやると、腕の中の千彩がふふふっと嬉しそうに笑った。

晴人自身、ここまで甘くなれるとは思ってもみなかった。いくら相手がまだ子供でも、ここまで何もかもを捧げられるなんて。

晴人自身でもその変化に驚いているくらいなのだから、周りの友人達が「ありえない!」と口にする気持ちもわからなくはない。

「はる」
「んー?」
「ずっとちさと一緒におってね?」
「当たり前やろ」
「ちさ頑張って元気なべいびー産むから、産まれたら褒めてくれる?」

ピタリと引っ付く千彩の頭を撫で、晴人は頷いた。

「いっぱい褒めたろ。だから頑張るんやで」
「うん!」

何とか無事でいてくれ。と、愛しい千彩と一緒に、小さくとも元気に育っている新しい命を抱き締め、晴人は願った。
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