EVER BLUE

聖奈の誕生物語

予定日が近いだけに、なるべく出社する回数を減らしていた。けれど、やはりどうしても出て来なければならない日というものはあるというもので。

そんな日に限って朝から千彩の体調があまり良くなかったりしたものだから、晴人としては不機嫌以外の表情を出すことが叶わなかった。

「怖い顔だ」
「おぉ、お疲れ」

ポンッと肩を叩かれ振り向くと、にこにこと微笑むメーシーがメイクブラシを片手にクルクルと円を描いていた。

「ん?」
「そんな顔してると、出て来る赤ちゃんに嫌われるぞ」
「まぁ、そう言うてくれるな」

千彩の具合が悪いのだ。と告げると、不思議そうにメーシーが首を傾げた。

「一人じゃないだろ?実家からお母さんが来てるって行ってたじゃないか」
「それがなー、昨日からおらんねや。こんなとこで仕事しとる場合とちゃうんやで、旦那様は」

心配そうに携帯のディスプレイを眺める晴人には、昔の面影はもう微塵も無い。メーシーにはそれが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。

「心配なら、麻理子をそっちに行かせようか?まだ終わらないだろ、撮影」
「せやなぁ。出来ればお願いしたい」

修整などは、この際他人任せでも良い。今更コンテストに出す作品でもあるまいし、誰が手を加えようがさして気にはならない。

けれど、撮影だけはそうはいかない。自分の手で撮らなければ、自分がシャッターを切らなければ、それは自分のした仕事にはならないのだ。

それが今の晴人には酷く歯痒い。

「あっ、ちょうど麻理子からだ。待ってて」
「おう」

相変わらず愛妻家やなぁ…と、立派に夫と二児の父親をこなしている友人の後ろ姿に、ふぅっとため息を吐く。

「王子、姫家に居るよね?」
「え?おぉ。具合悪そうやったから、出歩いたりはしとらん思うけど」
「麻理子が珍しく空気が読めてさ、今子供達連れておたくのマンションに行ってるらしいんだけど…」

珍しく空気が読めて…と嬉しそうにしている半面、言葉は不安げに紡がれる。

「インターフォン鳴らしても、何の反応も無いんだって。今扉の前に居るみたいなんだけど、何か水の音だけが聞こえるって」
「ちょっ…代わって!」

慌てて携帯を奪い取り、耳を押し当てる。ドンドンと扉を叩く音と、マナが「ちー!」と必死に呼ぶ声が晴人の不安を煽った。

「マリ!」
『晴?何か様子がおかしいわよ!』
「すぐ戻る!管理人に言うて鍵開けてもろて!」
『わかった!何かあったらambulance呼んでいい?』
「おぉ、頼む」

慌てて飛び出して行く晴人に、メーシーと恵介も続く。社会人としてどうかと思うのだけれど、この事務所の3トップ相手だけに誰も何も言えない。そんな三人を見送りながらふぅっとため息を吐いたのは、所長である織部だった。



三人がマンションへ到着した時には、もう既に救急車が到着していて。慌てて駆け寄る三人に、先に到着していたマリが何か叫びながら駆け寄って来る。

「メーシー!princessがっ!princessがっ!」

半狂乱状態のマリを受け止め、メーシーは自分の息子であるマナの姿を探した。抱かれている娘の無事は確認した。けれども、一緒に来ているはずのマナの姿が見当たらないのだ。


「ちー!ちー!」


聞き慣れた声に振り返ると、ガラガラと押されて来たストレッチャーの足元に、マナの姿を確認した。

「マナ!」
「めーちー」

ひょいと抱き上げ、横たわる千彩を確認する。血の気が引ききってしまっているその顔は、生きているかどうかさえ定かではなかった。

「ちーちゃん!しっかりして!ちーちゃん!」
「喧しい!静かにせんか!」

慌てふためく恵介と、それを一喝する晴人。二人の間に挟まれ、メーシーは状況を呑み込もうと必死になった。

「ちー!ちー!」
「あっ、こら!ダメだよ、マナ!」

モゾモゾと動くマナが、グッと千彩に手を伸ばす。臨月にしては小さめのお腹を摩り、ポロポロと涙を零し始めた。

「ちー」
「大丈夫だよ、マナ。すぐに元気になるからね」

ギュッと抱き直し、そっと頭を撫でてやる。自分達と同じように、マナもこの子の誕生を待ち望んでいた。それは、メーシーにもよくわかっている。

「ちーふぁい!」
「そうだね。ファイト、だね」

いい子だ。と、頬を擦り寄せ、空いた片手で到底「いい子」などとは呼べない、絶賛パニック中の愛妻の肩を引き寄せた。

「落ち着いて、マリー」
「どうしようメーシー!アタシがもっと早く家を出てれば…」
「大丈夫だよ。姫は強いから」

メーシーとて、冷静なわけではなかった。今まで我が子二人の出産を見てきたけれど、どちらの時も風にはならなかった。メーシーにとってもこれは不測の事態なのだ。

けれど、ここで自分が取り乱すわけにはいかない。何より、晴人が一番不安だろうから。

「王子、一緒に乗って行きなよ。後は俺に任せて」
「すまんな、メーシー」
「大丈夫。すぐに元気な顔が見れるから」
「…せやな」

ドンッと背中を押すと、頼りなく笑った晴人が振り返る。思わず苦笑いが零れたのは、致し方ないことだろう。

「しっかりしろよ、パパ」
「よ!ぱぱ!」

幼いマナにまで喝を入れられ、晴人も頷かないわけにはいかない。救急車に乗り込み、蒼白い顔でピクリとも動かない千彩の手を握った。

「大丈夫や。絶対大丈夫やからな」

お腹をゆっくりと撫で、ギュッと手を握り締める。そうでもしていないと、晴人自身が不安に押し潰されそうだった。



運ばれた病院は、大きな大学病院だった。
かかりつけの病院に…と思ったのだけれど、最悪の場合を示唆され、それに頷くしか出来なかった。

「晴人!」

バタバタと駆け寄って来た恵介を、視線だけで窘める。
じっと黙ったまま、シンと静まり返った空間に重苦しさだけが広がった。

「王子、どう?」
「おぉ。暫くかかるみたいやわ。マリと莉良は?」
「煩いから家に置いてきたよ。これだけはどうしても離れてくれなくてさ」

左手でマナを抱き、鞄を肩に掛けた右手をやれやれと広げるメーシー。ストンと下ろすと、今まさに千彩が入っている分娩室を指差してマナが不安げに呼び掛けた。

「ちー、ちー」

何度呼び掛けても反応がないことに諦めたのか、トコトコとマナは晴人の足元へ歩み寄った。

「ちー、ちー」
「お?」
「マナ、こっちおいで」
「や!ちー」

スリスリと晴人の足に擦り寄り、「抱いてくれ」とばかりにうんと両手を伸ばすマナ。到底そんな気分にはなれないのだけれど、ウルウルと潤んだ瞳を拒絶することは出来なかった。

「よし、来い」
「ちー」
「俺は晴やぞ」
「ちー」

ペチペチを頬を叩かれ、コツンと額を合わせる。褐色の右目が、揺れることなく晴人を見つめていた。

「愛斗、千彩好きか?」
「ちー!らびゅー!」
「そうか。千彩もお前のこと大好きや言うてたぞ」

ちゅっと右目に口づけると、ふふっと擽ったそうにマナが笑う。あれだけ重苦しかった空気が、それだけで軽くなったように感じる。

子供は不思議だ…と、改めてギュッとマナを抱き締めた。

「ごめんね、王子。ほら、こっちおいで」
「めーちー」
「よしよし。いい子だ」

抱き締めた息子の感覚に、メーシーはホッと安堵の息を吐く。
その時、急に分娩室への人の出入りが激しくなった。

「ちーちゃん!」
「ご主人ですか?」
「いや、俺はっ」
「僕です。妻がどうかしましたか?」

手を引かれて連れて行かれそうになる恵介を引き止め、サッと前へ立つ。看護師の慌て具合から、何かあったのだろうとギュッと唇を噛み締める。

「奥様の意識が戻られましたので、中へどうぞ」
「わかりました」
「ちー!」

バタバタと手足を動かし、メーシーの腕の中から逃げだしたマナが晴人の足元へとしがみ付いた。

「こらこら、マナ」
「お前も一緒に行くか?」
「ちー!」
「いいの?」
「かまへん。来い、愛斗」

スッと抱き上げると、マナはピタリと大人しくなった。それにふぅと大きく息を吐き、メーシーはポンポンとマナの頭を撫でた。

「邪魔しちゃダメだよ?」
「あい!」
「邪魔になるようだったらすぐに追い出して」
「おぉ。行ってくる」

漸く覚悟が決まったのか。と、小刻みに震えていた晴人の震えが止まっていたことに気付き、メーシーはギュッと両拳を握り締めた。

「俺もっ」
「お前はそこにおれ」
「でもっ」
「大丈夫や。すぐ子供と出て来る。産まれたら抱かせたるから」
「ちーちゃん…」
「心配すんな。何とかなる言うんはお前の役目やろが」

バシンと肩を叩かれ、恵介はギュッと唇を噛み締めコクリと頷く。


どうか無事で。


皆の思いは一つだった。
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