失意のキャット
 ファリカが迷路のようにややこしい小道を抜け大通りに戻る直前、昨日寝た男と偶然すれ違った。小太りの、禿げかかったお世辞にも綺麗とは言えない男は、十八になったばかりのファリカの父親程の年齢だった。
 その彼は目を輝かせ、唾を吐き散らかす勢いでこう言ったのである。
「あんたを探していたんだ。もう一回、いや、金なら幾らでも出す。俺のイロになってくれ」
 その申し出を聞いた瞬間、ファリカの胸は高鳴った。
 娼婦と違って情婦になるのに細かい決まり事はないのだ。ギルドも治安維持部隊も恐れずに済む。
 だけれども、こんなに都合の良い話が転がっていても良いものであろうか。
「幾らでも出すって、じゃあ仮に三週間あんたの情婦になったら幾ら出してくれるの?」
 三週間というのは譲れない線であった。
 パン屋のファリカに戻るのを心の支えとしつつ、ここ一週間、知らない男たちの腕の中で乾いた溜息を吐いていたのだから。
 ずっと娼婦ではいられない。
 彼にお金を渡して、借金を綺麗に片付けて、今度はパン屋の給料と彼の大工仕事の給料とで結婚資金をためなくちゃならないんだから。
 そして、男が提示した金額はファリカの恋人の借金を総て返した上で釣りがくるものであった。
 彼女は少し怖いと思いつつ、頷く。
 男が喜色に溢れた顔をしたが、それについてファリカは何も言わなかった。
 頷いた時点でもう、彼女は男の情婦なのだ。
「名前を聞いてもいい?」
 大通りに向かって歩き出しながらのファリカの言葉に、短い脚をせかせかと動かして、彼女に遅れないようにしながら男は言う。
「ジョナス・カールスだ。ジョーで良い」
 その途端、ファリカは電流に打たれでもしたかのようなショックを覚えた。
 恋人の名はシンジー・カールス。彼が父親の名前として紹介してくれた名前がジョナスであった。そして母親の名前は。
「奥さんの名前を聞いても良い?」
 そっとファリカは男と腕を組むと、乳房を押し付けるようにしてそう尋ねる。そのまろやかな感触に抵抗できるものなど誰もいやしないのだ。実際ジョナスの表情がうっとりとした男のそれに変わった。
「平凡な名前だ。リリスという」
 その名は、シンジーから教わった母親の名前とぴったり符合した。
「それよりもあんたの名前を聞かせておくれ。キティだなんて本名じゃないんだろう?」
 ジョナスの言葉に、組んでいた腕が震えだしそうになるのを必死で止めようとしつつ、ファリカは言う。
「あたしはキティよ。キティ・キャット。猫のように気紛れだから、いつ逃げ出すかもしれないわ」
「では赤い首輪を買おう。鈴をつけていつ何処にあんたがいても解るように」
 ジョナスの言葉にファリカは表筋を最大限に駆使して笑ってみせる。
 ジョナスが金を持っているのは嘘ではない。
 大抵の男達が致すべき事の為に選ぶのは連れ込み宿だったが、ジョナスは彼女を立派なホテルに連れて行ってくれた。彼女が今までの人生で足を踏み入れた部屋の中で最も豪華なその部屋の中で、ジョナスは酒の味など解らぬ小娘の為にワインを選んでくれた。
 そして一夜の代償に彼の払ってくれた金額は、ファリカが一週間身を売り続けた金額とほぼ同額だったのである。
 ファリカこそがつい先程、ジョナスの名前を聞く前までは彼との再会を熱望していた。もう一度ジョナスと寝たならば、彼は幾ら支払って食えるだろうと考えていた。
 ジョナスには金がある。
 それもファリカの常識では考えられない程。
 ならば息子が借金をしているというのはおかしな話だ。この国では父親の借金は息子の物、息子の借金は父親の物なのだから。
 法的な手続きを踏んで親子の縁を切らない限り、それは変わらない。
 たまたまジョナスの名前と妻の名前がシンジーの両親と被っただけよ。シンジーとは関係無い筈だわ。だって私のシンジーは、自分の両親は国外に赴任中だって言っていたもの。
「──三週間か。それだけでも良い。気紛れなキティ・キャット。私の情婦になってくれるね?」
 そう言ったジョナスの顔は真剣で。
 ガス灯の放つ光が、ジョナスの目の色はアイスブルーだと教えてくれた。シンジーと同じ色だった。
「その前に聞きたいんだけれど。シンジーって名前に心当たりある? 知り合いの間夫(まぶ)なのよ。カールスっていう姓なの。貴方と同姓だから関係あるのかなぁって思って」
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