牛乳




「なあ、」と名前を呼び掛けようとして、名前を知らなかったことに気付く。

曲はサビ。爽快なメロディーとは裏腹に、じっとりとした暑さが肌に纏わりつく。暗闇が背後に迫っていた。少し離れた場所にある自動販売機からの安っぽい光が、闇を照らしている。青年の黒色の髪は、そのままどろりとした闇夜に溶けてしまいそうだった。振り返った彼の、無感情な瞳。

I miss the world today。この世界は今日も君無しで周っている。

甘ったるくて堂々とした声と、ハードなロックが脳内を攪拌する。不快な汗が背中を伝った。何秒、何分、何時間そうしていただろうか。刹那だったに違いないが。ふと、年長の男の声が投げかけられた。それは、青年に向けられたものなのだろう。

「サエコ」

しかし、どう考えてもそれは青年の名前ではなかったし、青年は応えるべきではなかった。それでも彼は微笑むと──媚びた作り笑いだ──男を見た。そのときに小宮が見たのは、彼の殴られて切れたらしい口端と、彼に握りしめられる小さな手と、細く折れそうな幼子の手首。


< 6 / 10 >

この作品をシェア

pagetop