蒼天に明月


知らない男の声だった。


低い声が妙に心地よかったが、その言い方は私を威圧しているようで、私はここから逃げられないのだと感じた。


「…………」


はた、と色がついた視界に私は気づいた。


黒い布で目隠しをさせられているのかと。


両手足は鎖で縛られ、口には轡をされ視界は黒い布で覆われている。


今私に頼るものといえば、聴覚と嗅覚と感覚だけらしい。


しかし、言葉が発せないことはすなわち、私の意見を聞く気がないとみていいだろう。


…やれやれ、まったくとんでもないものに掴まってしまった。


「お前は今から俺のもんだ」


うなだれてした首を起こすと、男は私が起きていると認識したのだろう。


話しかけてきた。


が、一体この男は何を言っているのだろうか。


それを言うために私を拉致したのではあるいまい。


俺のものということは、英語でいうitの意味だろうか。


動物や魂をもたない無機質で何も感じず、何も言わず、何もしない、ただそこにあるだけのもの。


それとも彼女的な特別の意味になるのだろうか。


どちらにせよ言葉足らずで意味が分からない。


「………………」


はらり、と不意に視界が開けた。


目を覆っていたものが取り払われたようだった。


明るい世界にまぶしく、思わず目をきつくつむる。


ああ、このまま眠ってしまいたい。


続いて轡が外され、違和感だらけの口をもごもごさせた。


「逆らえば殺す。飽きても殺す。死にたくねえんなら、せいぜい俺を楽しませろ」


目が世界に慣れはじめたころ、男が口を開いた。


「……………わぁ…」


ドン引きした。


男の言葉にドン引きした。


眠ってしまいたいと思っているほど絶望していたのにも関わらず、なんてことをいうのだろうと興味がわく。


身長は、180センチは超えていそうで、がっちりとした筋肉のおかげで着ている黒い無地のTシャツが今にもはじけそうである。


ヒョウ柄のパンツ、ピンクの靴を履いている男に一体どこからなにをツッコんでいいのか分からなくなる。


一体この男はなんだ。


「返事は?」


反応がない私に男は近づいた。


その顔はシミひとつない綺麗な肌であった。


大きく開いた眼に眉間にしわが寄っていた。


思わずどんな肌の手入れをしているのかと聞きたくなるほどである。


じっと自分の顔をみて何も言わない私に嫌気がさしたのだろうか、男は私のほほを叩いた。


それは、ビンタとは程遠いもので、思い切り叩いたのだろう。


椅子と共に地面に叩きつけられ、口の中で血の味がし、鼻から何かが垂れてきている感覚がした。


「返事はって聞いてんだろ」


ぐい、と倒れている私の髪を持ち、私と同じ目線になるように持ち上げる。


ああ、頭皮が焼けそうだ。


目を合わせると男の目は鋭く光っていた。


まるで獲物を見つけた肉食動物のように。


「逆らえば殺す。飽きても殺す。死にたくねえんなら、せいぜい俺を楽しませろ」と先ほど言っていたが、どのみち私が殺されることには変わりないだろう。


それならいっそのこと今ここで、死んでも構わないだろう。


ああでも、恋人には申し訳ない…こともないな。


もう私のほかに女がいる。


「質問」


「あ?」


冷めた目で男が苛立ちながら返事をした。


「意見を言うのは?」


「逆らうとみなし殺す」


ハッと鼻で笑い、ニヤリと口角を上げ、嘲笑するように言った。


「私に奴隷になれと?」


ここで私はただ従い、男の機嫌を取る奴隷になれと。


それができないのなら、用はない。


「理解が早くて助かるぜ」


いまどき語尾に「ぜ」なんてつける人いたのか。


なんてのんきに思っていると、体が宙に浮き、壁に激突した。


おいおい、私が椅子に繋がれていること忘れていないか。


「おっと悪い、手が滑っちまった」


ほんとに、ツッコむところたくさんありすぎて。


気を失わない私の図太い精神力がすごいのか、一応加減したから私が死んでいないのか、それともただ私の体が丈夫なのか。


ズキズキと痛む頭や肩を気にしながら、ゲホとせき込む私の目の前に男が立ち、私を見下ろす。


「…殺せば?」


「は?」


私の言葉に面食らった男が、かすれた声で言った。


「従う気はない。こんな乱暴な主の隷なんてまっぴらごめんだね」


ニヤリと、私は口角を上げた。


このまま、死ぬのも悪くない。


と言ったが、せっかく頑張って受験勉強をして、着たかった制服を着て、念願だった高校デビューを果たして、彼氏もできて。


順風満帆だったはずなのに、どこから私の人生は壊れてしまったのだろう。


「てめぇ…!」


男の顔は怒っていた。


青筋が浮かび、目を見開き、私の首をつかみ、力を籠める。


「…っは!」


ああ、苦しい。


口からよだれがこぼれていく。


息が詰まっていく。


私はこれで死ぬのか。


別に死んでも悲しんでくれる人はいないだろうが、それが悲しいな。


薄れていく意識の中でそんなことを考えた。
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