あの猫を幸せに出来る人になりたい
 いつものようにホームルームが終わってすぐ、花は教室を出た。急ぎ足で階段を降りると、一年の靴箱のところに倉内が待っていた。すでに靴を履き終えている。

「お待たせしました」

「だ、大丈夫、待ってないよ、花さん」

 その言葉のわりには、倉内の声はやや上ずっていて早口だった。おそらく、昼休みの出来事のことがずっと気になって、花から事情を早く聞きたかったのだろう。そんなに心配することではないのだと、昼休みに言葉や表情で伝えていたつもりだったのだが、うまくいってなかったようだ。

「それで、花さん……」

 校門を越えるや、それまでただ彼女をチラチラと見るだけだった彼は、話を切り出した。一方花は、その短い距離の間、どう話したものかと考えていた。

 残暑はまだ厳しく、西に傾きかけた日差しが目に突き刺さるようだ。それで、ぱっちりしていない目を、更に細くしなければならないのは悲しい話である。そして、倉内の少々目を細めた様子は、いつもとは違う大人びた表情に見えるのが不公平な話でもあった。

「あー、あれです……格付けの確認のようなものです」

「か、格付け?」

 言葉が足りていないことは、花も分かっていた。だから、倉内が細めた目で怪訝そうにこちらを見てくるのに対して頷きながらも、次の言葉を考えていた。

「社会性のある動物……犬や狼なんかは、集団の中で順位付けするんです。先輩たちからしてみれば、私は新参者なので、どのくらい力があるか計りに来たんだと思います」

 人間も集団で生活する。格付けの確認が発生するのは、当然と言えよう。花は、犬と数多く触れ合う機会があったので、格付けに負けると大変なのは、よく理解していた。

 逆に言えば。

「負けませんでしたから、大丈夫ですよ?」

 今日、先輩たちから呼び出された時、頭の隅にあった言葉はただひとつ──『負けてはならない』ということだった。勝つ必要はないが、負けると今後の倉内との付き合いに陰が出来るのは必至だったのだ。

「それは……いいんだけど……」

 しかし、倉内の表情は晴れない。言葉を口の中でもごもごと動かし、次の言葉を模索しているように見える。

 そんな彼が、一度視線を下げ、その後でゆっくりと花の方にその瞳を向けてきた時、彼女はちょっとだけドキリとした。

「花さん……花さんは、そ、その、人のちょっと問題のあるところも、動物にたとえて、肯定的に考えるところがあると、お、思うんだけど……」

 長い言葉を、ゆっくりゆっくり気をつけながら、倉内が紡いでいく。この時の花は、彼の言葉をひとつずつ耳に入れ理解しようとしていたので、後に続く言葉を予測していなかった。

「全部を、そう全部を、受け入れようと、しなくても、いいと、思うんだ」

 カチリ、カチリと倉内が言葉を刻んだ。時計の針が一秒進むごとに一文節ずつ刻んでいくのを、花はその目に映していた。ためらう彼の唇は、どもらないように言葉を吐き出すためなのか、その内容を花に伝えるのことを不安に思っているからなのか。

 全部を?

 彼女は、首を傾げた。よく、意味が分からなかった花は、横を歩く倉内を見上げると、彼は少し心配そうな目で見つめ返してきた。

「花さんは、合わせることが、出来るから。人の、短所にも、みんな合わせて、しまうから」

『だから』

 その三文字は、音ではなかった。倉内の唇が、その形通りに動いただけ。言葉が空回ったことに気づいたのだろう。倉内の右の指が、自分の唇を拭うように動いた。

「合わせてもらった、僕が言うことじゃないと、分かっているけど……いつか、花さんが、受け入れられないほどの人に、出会ったらって思うと……僕は、心配してしまうんだ」

 その指の動きに気をとられていため、花はちゃんと聞こえていたにもかかわらず、彼の言葉をすぐには理解出来なかった。

「え?」

 代わりに、マヌケな音が自分の口から落ちたのに気づく。

「僕は、犬じゃない、猫じゃない、倉内楓だから……花さんの友達だから、花さんが止めても、僕は花さんを心配するよ」

 カチリカチリと刻まれる、誠実な時間。たくさんの言葉を心の中で咀嚼して、厳選された音をゆっくりゆっくりその唇で表されていくのが伝わってくる。

 犬じゃないという言葉に、花はタロを思い出していた。昼休みの先輩たちではないが、あの時の彼女は確かに倉内のことをタロになぞらえていたのだ。

 花の思考回路は、そこまで複雑な作りをしていない。彼女の発言を集めて組み立てていけば、花が倉内を何かに例えていたかもしれないと気づく可能性はあった。

 おみそれしました。

 花は、心の中で「ははーっ」と恐れ入った。しかし、ここはお白洲ではないし、彼女の目の前にいるのは桜吹雪の刺青を入れているお奉行様でもない。

 第一、倉内がメインで花に伝えようとしている部分は、そこではなかった。一番重要なのは──『友達だから心配する』という言葉だ。

「ええと……ありがとうございます、楓先輩。出来るだけ心配かけないように、します、ね?」

 桜吹雪とは無縁の、むっとする残暑厳しい道を歩きながら、花は困った笑いを浮かべてしまった。少しずつ、倉内に自分を知られていっている気がしたのだ。

「ごめん、間違えた」

 そんな花よりも、倉内が困った顔をしてしまう。両手で一度、自分のこめかみの辺りを押さえて、目を閉じると眉間に大きな皺を刻む。いま、彼は頭の中で言葉を組み立てているのだろうと分かった。

 黙って、花は彼の言葉を待つ。

「花さん」

「はいっ」

 その両目が開き、改めて瞳の中に花を映して語りかけてくる倉内の言葉には、さっきよりも強い気持ちがこもっているように思えた。思わず、返事にも力が入ってしまう。

「花さんは、僕が、一番苦しい時に……手を差し伸べてくれたから……僕も、僕も、必ずそうする。だから、僕に、心配させて?」

 懸命な瞳の中には、真っ直ぐに花が映り続けていた。人は、真剣さが突き抜けると、照れを置き去りにするようだ。

 そんな倉内から伝わってくるのは、差し伸べられる手の感触。借りを返したいという言葉に聞こえなくもないが、もっとまっすぐな感情に思えた。

 倉内は、花を──心配したいのだ。

 それだけは、ちゃんと彼女の心に入ってきた。つい少し前まで、対人恐怖症の殻の中にいた倉内楓の姿は、もうどこにもない。猫に差し伸べられていた手が、いまや花に向けられている。

 花はいま、またひとつ彼の成長を目の当たりにした。距離は離れないまま、倉内は大きくなっていく。

「私、もう、楓先輩のこと……全然心配してませんよ。それなのに、楓先輩だけに心配させるのは、何かこう、不公平のような」

 対する花は、何か成長しただろうかと自分を見つめてみる。だが、何も変わっていない気がした。どうも、劇的に変わる性質ではないようだ。ちょっと残念だった。

 くだらない残念を考えながら、唇がすべるままに言葉を発していた。思えば、倉内の言葉より何と軽い音だったか。しっかりと考えをまとめなくとも、だらだらと言葉は溢れさせることが出来るのだ。

 そんな溢れた言葉を、倉内は一瞬呆然とした表情で受け取った後。

「──っ!」

 花は見た。しっかり見た。嬉しさに崩れそうになる顔を、とっさに倉内がその手でがしっと掴んで、それ以上の崩壊を止めたのだ。日差しとは違う赤が、その顔には広がっていた。

 喜ばせるようなことも、照れさせるようなことも言ったつもりはなかったが、耐えられないように目をそらした倉内を見るのは忍びなく、花も視線をそらした。

「い、いいよ、不公平じゃない、全然……僕だけが、花さんを、心配したいんだ」

 手はまだ、顔から離せないでいる。少々崩れても、元がいいから大丈夫だろうにと、花は変なことを考えながら、その手の向こう側から続けられる彼の言葉を聞いた。我慢出来ないように、すこしどもる音。

「そう、ですか? それじゃあ、お願いします」

 花は、彼の希望を素直に受け入れた。倉内がそうしたいと望み、なおかつ、それを彼が押し付けがましくしてくることはないだろうと思ったからだ。人に感情を押し付けられてきた倉内だからこそ、それを間違うことはきっとない、と。

 それに、心配の種というのは、実はそんなに転がっているものではないんじゃないかと、花は楽観的に考えていた。

「う、うん……喜んで」

 どうにも顔が戻らないのか、倉内はずっと手で顔の下半分を押さえたままだった。

 花を心配出来る立場になったことが、とても嬉しいようだ。お返しに、彼女も倉内を心配しようと考えかけたが、やっぱり心配の種が思い浮かばない。もはや、彼は対人恐怖症を克服しつつあるのだから。

「あ、そういえば、もうすぐ修学旅行ですね」

 この話題を続けていては、倉内の顔から手が離れないような気がして、花は話題を変えた。

「う、うん、そうだね……お土産買ってくるよ」

「わあ、ありがとうございます。京都奈良でしたっけ……あ、新撰組のグッズはいらないです」

「それは、分かってる」

 花の脳裏に、そしておそらく間違いなく倉内の脳裏にも、彼の従妹であるエリーズの顔が思い浮かんだに違いない。互いに顔を見合わせて、へへへと笑う。花の希望通り、倉内の手はその顔から離れた。

「フルールを……説得、しなきゃな」

「それは、楓先輩の重要なお仕事ですね」

 修学旅行の間、愛猫と会えなくなる倉内が、少しテンションを下げたのを感じ、花は元気づけるためにぽんと彼の背を叩いた。

「う、ん……」

 うつむいた倉内の顔は、少し赤くなっていた。


 家に帰って、花は生活の隙間で今日の出来事を思い出した。ある程度は、花の想像通りの流れだったが、倉内が彼女の本質を見抜いていたのには、本当に恐れ入った。

 少し、悔しかった。


『もうすぐ修学旅行だ。僕の可愛いフルールと四日間も離れていなきゃいけないと思うと心が痛い。今日から毎晩、フルールとちゃんと向かい合って話すことにした。ああ、一緒に修学旅行に行ければいいのに。お土産を選ぶ楽しさより、同じものを見て違う言葉で語り合いたかった』

 今日の倉内のブログは、ついにフルール説得作戦を開始したことが書かれていた。さすがに、猫を連れて修学旅行は無理だろう。

 そして、修学旅行で手に入りそうな猫のお土産について考え始めた花は、倉内のブログを閉じて、参考のためにネットショップを漁り始めたのだった。


『終』

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