あの猫を幸せに出来る人になりたい
「はなー、手を離せないから出て」

 鍋の前の母にそう言われて、「はあい」と花は玄関に向かった。どちらさまですかと問いかけると、隣のおばさんだった。「お母さんいるかしら、町内会のことなんだけど」と言われて、花は台所へと戻った。

「あらそう。じゃあ花、お鍋吹きこぼれないように見てて。アク取ってくれると助かるわ」と、鍋の前をバトンタッチする。彼女はぼんやりと、魚のアラのお吸い物らしき骨の踊る湯の中を見ていた。

 玄関からは母の楽しそうな声。町内会の話だけでなく、きっと雑談にも興じているのだろう。お湯の水面を、浮き上がってきたアクが円を描くように回りだすのを見つめる。茶色いアクは、だんだん鍋の金属へ向かって行く。花はお玉と小皿を持った。あの逃げ惑うアクを追い詰めようと思ったのだ。

 アクにとっては、生死を賭けた攻防が行われている最中、母が台所に戻ってきた。さっきまで「あらあらまあまあ」とか玄関でやっていたが、それはもう終わったのだろうかと、花はお玉を持ったまま母を振り返る。

「花、ちょっと玄関行って、荷物もらってきて」

 手を伸ばした母ににこっと微笑まれて、花は「?」となった。何か気持ち悪い顔に見えたのだ。いつもの笑顔と違うような。

 町内会の荷物?

 首を傾げながら、花は台所を出た。そこを出て右に曲がれば廊下の先が玄関だ。目隠しも何もない、狭い廊下の先にはもう玄関の扉が見える。

「……!!」

 次の瞬間、花は自分の心臓が飛び出さんばかりに驚いたのが分かった。

「か、か、か、楓先輩!」

 そこには、まだ制服姿のままの倉内がいたのだ。まさかのフェイントに、花は台所の母に珍しくキシャーッと牙をむきたくなった。あの笑顔の意味は、これだったのか、と。

「……ただいま、花さん」

 はにかみながら倉内が、こんばんはではなくそんな挨拶を投げる。

「お、おかえりなさい。どうしたんですか?」

 まだバクバクする心臓を抑えられず、花は慌てて玄関まで駆けつけた。

「学校じゃ、これ、渡しにくいから。皆さんで食べて」

 差し出されたのは、八ツ橋の箱。個人的な小さなおみやげではなく、わざわざ家用にまで買ってくれていたようだ。義理堅すぎると花は、心の中の来年の修学旅行おみやげメモとして、倉内家の名前を書き込まなければならなかった。

「ありがとうございます、わざわざすみません」

 こんな大きいものは、確かに学校には持って行きたくないだろう。友人として渡すにしては仰々しすぎる。

「それと、これは花さんに」

 受け取った八ツ橋の箱の上に、そっと乗せられる小さな包み。

「あり、ありがとうございます」

 その頃には、ようやくびっくりのドキドキも落ち着いていって、花はまっすぐ倉内を見ることが出来た。

「修学旅行、楽しかったですか?」

「……うん」

 一拍、奇妙な間が空いた。何かあったんではないかと、首を傾げると「ないよ、何もない。楽しかったよ」と慌てて言葉を乗せられた。

「私も楽しかったです。名所めぐりのメール。ありがとうございました」

 いま両手が空いていたら、ポケットから携帯を出してアピールしていたことだろう。しかし、花の両手の上には八ツ橋と袋が乗っている。

 それに倉内が、へへへと恥ずかしそうに、でも幸せそうに笑う。力作のメールを花が喜んでいるのが分かって、きっと嬉しいのだろう。

「来年までこのメールとっておいて、私も一緒に修学旅行に連れていきますね」

 そんな彼の嬉しそうな顔に、花も嬉しくなる。だから、彼女のとっておきの計画を、大事な友人には打ち明けた。

「えっ……」

 次の瞬間。

 倉内は恥ずかしくなってしまったのか、一瞬耳まで赤くなって、「そ、そう」と顔をそらしてしまった。花にとって最初の不意打ちの驚きを、変なところで返してしまった気がする。本来であれば、その反撃にあうべき相手は倉内ではなくて母だったというのに。

 江戸の仇を長崎で討ってしまった。

「今年、一緒に楓先輩に修学旅行に連れてってもらいましたから、来年は私が楓先輩を連れていくんです」

 仇討ちじゃありませんよーとアピールするために、花は自分の気持ちをちゃんと説明した。「あ、ああ、うん、そう」と何だかうまく伝わっている様子はなかったが。

「そういえば、フルール……フルちゃんは大丈夫でしたか?」

 だから、花は彼が冷静になれそうな話題に変える。いま彼がここにいることが、その証明であることは分かっていたが、彼女も気になっていたので聞きたかった。

「う、うん。帰ってくるなり離れたがらなくて、少し大変だったけど、怒ってはいなかった。よかった」

 倉内の茶色い目が、フルールを思い出す優しい瞳になる。自然に、花もほわんとした気持ちになった。

「それなのに、家を出てきて大丈夫でした?」

 まだきっと、フルールは全然倉内に満足していないだろう。それは彼自身も同じのはずだ。

「あ、うん、大丈夫……というか、車の中で待ってるから」

 肩越しに少し後ろを振り返る動き。父親の車で来たようだ。きっと、その中ではフルールが彼の帰りを首を長くして待っていることだろう。

「それじゃあ、早く戻ってあげないと」

 彼をあまり長く引き止めてはいけないと、花は言葉をたたみ始めようとした。

「あ、うん……ええと、花さん」

 前に向き直った倉内が、何か言いたそうに言葉を開く。しかし、すぐには出ない。彼にはこんな時が多々ある。こういう時の花は、ただ黙って彼が言葉を探し終えるまで待つ。

「いつか……いつか、その……」

 言いかけたその言葉は──「ごほんごほん」というわざとらしい咳払いが、花の後方から投げつけられたことによってちぎれて消えた。

 ああっ!

 せっかく、倉内が勇気を出して何か言おうとしたのにと振り返ると、花の父が台所から顔を出している。

「こ、こんばんは、お邪魔しています」

 玄関の倉内がぺこりと、頭をさげた。

「修学旅行のおみやげを、わざわざ届けてくれたの」

 花は振り返ったついでに、手に持っているものを父に見せる。この家のボス犬は、若いオス犬に「誰の縄張りか分かってんだろうな」と、一言確認せずにはいられないようだ。困ったボスである。

「ああ、いや、修学旅行だったね。うちにまでお土産、わざわざすまないね。ありがとう」

 縄張り確認が終わったのか、うむといかめしいフリをした顔で父が頷く。今日はまだ仕事上がりで普通の服装だったからこそ、威厳らしきものがあったかもしれない。お風呂上りでなくてよかったねというのが、娘の正直な意見だった。

「すみません、夕飯時に。じゃあ、花さん、また……明日」

 父親の前で緊張した面持ちに戻った楓は、少し堅苦しいカンジで挨拶をした。

「はい、わざわざありがとうございました。また明日、学校で」

 慌てて花も、話の風呂敷を畳む。ぺこ、ぺこと高校生の二人が互いに頭を小さく下げ合った後、玄関は閉ざされた。

 くるりと振り返ると、もはやボス犬は自分の出番は終わったとばかりに消えている。

「おかあさーん、はい荷物……八ツ橋」

 今日のドッキリの殊勲賞のいる台所に戻ると、母はお玉を持ってにっこり花を振り返った。やっぱり少し気持ち悪い。

「わあ、八ツ橋好きなのよ。食後のおやつにしましょ」

 食卓の上に箱を置く花に、笑顔の母。母は薄口醤油の小瓶を取り、鍋に注いでいく。きっと鍋の中では、もうアクは全滅させられてしまったことだろう。

 上機嫌な母を置いて、花は八ツ橋の上の小袋を手に取った。こっちは、倉内が花個人にくれたおみやげだ。

 何だろうと袋を開けたら。

 中から出てきたのは──桜の花の形をしたストラップだった。

 おおと、そのピンクのストラップを、目の前に持ち上げて見つめる。和風テイストで可愛らしい。

 京都らしくもあり、花の名前にもじって選んでくれたのもあり、それを見ているとついへらっと花の顔も緩む。

 そして花は、袋の中のストラップを取り出し、ポケットの携帯にとりつけた。

 お前も来年、一緒に京都に里帰りしようね、と自分の携帯にぶら下がる桜の花に向かって心の中で語りかけた。



 その夜は、倉内も疲れて眠ってしまったのだろう。ブログは更新されないままだった。

 翌日、花は倉内と何の約束もしていなかった。しかし、彼女は授業が終わった後、急いで下駄箱へと向かう。話したいことが、いっぱいあったわけではない。でも何だか話したい気分だった。「もしかしたら」という淡い期待に引っ張られるように、花は三階から駆け下りた。

 そうしたら。

 倉内が下駄箱の側で、慌てて携帯をポケットから出しているのが見えた。メールを打とうとしているのか、急いだ指がスマホの画面をタッチしている。

 それに、あっと思った後、ぷっと噴き出してしまう。

 ふたつ、面白いことに気づいてしまったのだ。

 ひとつは、きっと倉内も花と同じ気持ちで下駄箱に来たはいいが、彼女がいないのでメールしようとしているということ。もし、最初に花が到着していたら、メールしていたのはきっと自分だったろうと思った。

 もうひとつは。

 倉内のスマホケースに──紅葉の葉のストラップがぶら下がっていること。花と同じシリーズのようだ。雰囲気がよく似ていた。彼もまた自分の名に見合ったストラップを買ったのだと思うと、すっかり彼女は楽しくなってしまった。

 一生懸命花にメールを打とうとする倉内が、それを終えてしまうより先に。

「楓先輩!」

 花は、彼に向かって呼びかけたのだった。


『終』
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