たなごころ―[Berry's版(改)]
 現実的に考えるとするならば。探偵と言われ思いつくのは……浮気調査いたしますの看板を掲げた大手事務所くらいだろうか。個人的な名刺を差し出してくる探偵が自分と関わることになるなど、今までの人生を振り返っても、この先の自分の人生を考えても。笑実には想像することすら難しい。あくまでも、笑実自身とは関係のない別世界での話としか考えられない。
 さらに、喜多が口にした『復讐』の言葉。思い出しただけでも、失笑モノだと笑実思う。それこそ、演歌や2時間メロドラマの世界の話だ。

 結局。笑実は喜多の話から逃げるように、あの事務所を後にした。酷く動揺したままに。

 笑実は姿勢を正し、引き出しに片付けておいた化粧ポーチから小さな手鏡を取り出す。そこに映るのは。30年間付き合ってきた、紛れもない笑実自身の顔だ。昨日の疲れが色濃く残る顔色は、多少なりとも化粧でカバーできていた。コンプレックスを感じる、少しだけ目尻の上がった眸は変わることなく健在で、猫を連想させる。昨日会う約束をしていた彼のことを思って、カラーリングしたばかりの髪にも艶がない。
 間違っても。今の笑実は2次元の世界で持てはやされる主人公になれるようなタイプの人間ではない。
 諦めのような小さな溜め息をひとつ、零したとき。ポケットに収めていた携帯電話が振動を繰り返す。それを取り出し、画面を覗けばメール1件の表示が。親指で操作をし現れた名前に、笑実は再びカウンターに突っ伏したくなったのだった。

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