たなごころ―[Berry's版(改)]
 ※※※※※※

 笑実は、目の前にあるドアの窪みに手を掛ける。カラコロと小気味良い音を立てながら、スペースの開いたそこを通り抜け、古紙の匂いが立ち込める店内へ身体を滑り込ませる。もう二度と訪れることはないだろうと思っていた場所に、笑実は再び足を踏み入れていた。
 人の気配の感じられない店内。物音も、音楽も流れていない沈黙が支配する空間。小さく息を飲んでから、笑実は口を開いた。

「……すみません、どなたかいらっしゃいますか?」

 物が転がり落ちるような音と共に、ドアの開閉音が笑実の耳に届く。本棚と本で出来たタワーの隙間を覗きながら、笑実は音が聞こえたほうへ視線を向ける。そこには、先日と変わらぬ前髪で眸を隠した箕浪の姿があった。
 右手で、乱れた自身の髪を更に掻き回しながら。箕浪は笑実との距離を詰める。

「あんたは確か……」
「はい。先日はお世話になりました。これ、お借りしていた服です。クリーニングは済ませてあります」
「わざわざどうも。これ、返しに来ただけ?」
「いえ、違います」

 僅かに出来ていいるスペースで、ふたりは向かい合う。実際は見えてはいないはずなのだが。箕浪からの鋭い視線を笑実は全身で感じながら。
 緊張のため、乾いてしまった唇を一度湿らせて。笑実は気持ちを静める。

「先日は自己紹介も出来ずに失礼しました。私、猪俣笑実と言います。喜多さんから受けたあの提案をお願いと思い、今日は来ました。
――お願いします」

 笑実は深く頭を下げた。

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