あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「僕たち、やり直すことはできないのか?」
「は?」

 桜は思わず、目が点になる。
 志岐はそんな様子を苦笑しつつ、視線を向けた。
 桜の手はまだ、志岐の手の中だ。

「あの時の手痛いしっぺ返しを忘れられないのは確かだが、僕はあのときの桜が忘れられない」
「意味が…」
「簡単に言えば、遅まきながら君を女性として意識したってことだ」
「や、やり直すって…」

 罠なのか? 何かの罠なのか? 頭の中でそういう声が響くような気がした。
 結局、志岐の言ってることをまったく信用していない自分がいることに気がついた。
 だってなんといっても社内政治にどっぷりとつかって生きてきたのが志岐だ。メリットデメリットでまず彼は判断する男だ。そのことを思い出すとどうしても冷静に彼の言葉にうなづけない。

「あの時までの僕らは、何か通じ合うものを感じてたはずだろ? だから君は僕にずいぶんなついていた」
「……」
「僕のことを信じられないのは十分わかってはいるが、やり直したいって言うのはそういうことなんだけど」
「イヤもうなんて言っていいか…」
「時間がかかるのはしょうがないかもしれないけど、少し考えてくれないか」

 僕と君だと、想いとして持っているものがとても近いし、なんと言っても痛みとはいえ、共有しているものがある。釣り合い的なバランスもいいだろ?
 そう、志岐が畳み掛ける。

 ――釣り合いとかバランスとか、そういうことじゃなくて。

 どういえば伝わるんだろう?と桜は困惑した。
 一見口当たりのよい言葉に聞こえるが、お互い後ろめたさを抱えたまま、関係を構築することは不可能だ。
 桜も志岐を傷つけたが、先に志岐は桜の信頼を裏切った。

「志岐さん…」
「僕と君で隆さんを支えていくことができれば、隆さんにとってもいいことだと思わないか?」
「あなたは、そこまで隆さんを…」

 そこまで、あの男にあこがれるのか…と、桜は自嘲気味に思った。
 確かに太陽のような人ではあるが、あまり近づきすぎると焼かれて蒸発してしまうだろう。そもそも、隆のことは同志として、上司として慕ってはいるが、桜にとってはどこかフラットな関係だと思っているところがある。志岐のように隆に対して憧れのような崇拝のような想いはまったくない。

 ――ああ。だからか…。

 今回の人事異動についていろいろ疑問を感じていたことが少しだけ解けてくる。
 なぜ、隆は志岐の人事を受け入れたのか。
 志岐もなぜ、隆の下に下ることを受け入れたのか。
 まだまとまらないながらも、理解するためのヒントの一端を見つけたと、桜は思った。

「志岐さんが隆さんを支えたい、一緒にやっていきたいと言うなら、それでいいと思いますよ。私がどうこうとかは別に関係なく、あの人はちゃんと人の想いを見てくれる人です」
「それもあるけれど、君と一緒にやっていければって言うのも本音なんだ」
「…」
「僕はあの夜から女性として君が好きだ」
「……」

 あの夜をそういう風に彼は感じていたのか、と桜は思った。
 彼は桜から奪ったし、桜は返す刀で彼を罰したと思っていた、あの夜を。
 桜を好きという気持ちは確かに、今の志岐の中にあるのかもしれない。
 ただ、絡め手の告白なんて…と思う。
 自分を手に入れたいのか、隆の懐に入りたいのか、そんな中途半端な気持ちの告白で、心を動かす女がいるのかと。

 ――ああ、でも見目もそこそこよくて、会社の期待度も高くて、一部上場企業ときたらスペックとしては申し分ないのか。普通の女だったら喜んでこういう男に飛びつくの?
 そういえば彼とよく飲んでたときは、『普通は』とかいうことをよく諭されたっけ?
 それとも、お互い醜い局面を知ってる者同士、釣り合いとバランスって言う意味なんだろうか?

 志岐の告白が唐突過ぎて、理論と感情の折り合いがうまく合わない。5年前に覚えた昏い思考に引っ張られそうになっているのは自覚している。
 くっと、喉の奥が鳴って、嗤い顔が漏れそうになる。自分の気持ちの昏い局面をそのままむき出しにして相手を見つめてしまいそうだった。

 そんなときに、桜たちが座っているカウンターの横を通り過ぎようとした女性が足を止めた。

「あり? さ、くらさん…じゃないですかぁ?」
「な…なな、みちゃん!?」

 ふと、何かに引き戻されるように、目がまん丸になるくらい驚いていた。その後ろにいた更なる闖入者にさらに驚く。

「――桜さん」
「あ、葵まで…」

 葵の目線がすぐに剣呑な光を点す。まだ志岐に手を握られていたことに気がつき、さっと手をはずして、桜は体勢を整えた。

「こんなところで会うなんてびっくりね。志岐さん、こちら友人の藤間(とうま)葵さんと、大森七海ちゃん。ふたりともこちら同僚の志岐さんね」

 桜は冷や汗を流しつつ紹介した。自分の暗いあの態度を葵たちに見られたんだろうか?と冷や汗がにじみ出る。隠して隠して、自分でも見ないようにしてきているものを見られていたらどうしよう。きっと――軽蔑される、そういう思いが桜に葵たちの視線を避けて、顔を伏せさせた。

「はじめまして。同僚の志岐です。桜の友達って奇遇ですね。それに――。なんだかお似合いのお二人ですね」

 志岐がサラリとすごいことを言った。思わず桜は顔を上げて二人を見やる。
 確かに。会社帰りの葵はスーツで七海は、少しゴスが入ったミニスカートとニーハイ。まったく毛色の違うファッションだが、なぜか若いカップルのデートと言うかんじで違和感がない。年齢的にも釣り合っている気がする。
 
 ――釣り合い的なバランスもいいだろ?

 志岐が先ほど言った言葉が頭の中によみがえる。まったく関係ない意味で使われているというのに、ツキン…という痛みが胸に走った気がした。

 ――私と葵じゃ、どうやっても釣り合わない。しかも、女としての私はとても醜い。

 なんだかとても悲しくなって思わずバッグを取った。
 志岐の告白といい、葵が突然現れたこといい…桜の許容範囲を超えていて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

「すいません。志岐さん、私、ちょっと…。今日のところは失礼します! 葵と七海ちゃんもまた今度!」

 そう言って3人が止める暇もなく、身を翻した。

「あ。桜さん!」

 化粧室に行こうとしていたらしく、バッグを持っていた七海が後を追いかける。
 葵と志岐は、会計をしなくてはいけない分、スタートにどうしてもハンデが発生し、店を出た頃には、桜も七海も見当たらないという事態に陥っていた。
< 22 / 62 >

この作品をシェア

pagetop