あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「で? 何があったんです?」

 七海の部屋に通されて、温かな紅茶を出されつつ、尋ねられた。
 店を出たところであっさりと気持ち悪いといってうずくまった七海を見捨てるわけにも行かず、七海の様子を伺うために足を止めたところで捕獲された。
 もちろん気分が悪いというのは、桜を捕まえるための演技だった。
 七海はそのまま、速攻タクシーを捕まえ、七海の部屋まで移動した。なぜにこんなことになってしまったのか、桜には謎だった。

「どこから何を言えばいいか…」

 しかし私、捕獲されすぎじゃね?と、若干憮然となってしまったのは致し方ないであろう。特に葵には、あの失態の夜から何度も捕獲された…。
 自分の脇の甘さに頭を抱えたくなってもしょうがないだろう。

「まず一発言っときますけど、葵とは単に飲んでただけですからね」

 冷静に考えなくてもそれはわかっているのだが、あの瞬間自分の中を駆け抜けた感情をなんて表現していいのかがわからなかった。嫉妬なのか、諦めなのか、ぐちゃぐちゃとして判別できないほどの醜いもの。

「いや、それはわかってるんだけど…」
「じゃーなんで、あんな顔したんですか?」

 あんな顔ってどんな顔だろう? 素直にそれが顔に出たのであろう、七海が桜に聞いた。
 
「一体、葵クンと何があったんです?」

 葵とだけが問題ではないのだが…。
 ただ、確かに絶対なんかあったでしょう?と詰め寄られるとぐうの音も出ない。

「やっ。まぁ、ちょっとなんてーか…」
「やっちゃったんですか!?」
「そ、そんなはっきり言わないでよ…」

 ええええー!?と指摘しておいて目を丸くする七海に桜は真っ赤な顔を伏せるしかなかった。

「最初、はずみで…っ。なんていうか、私が無理やり持ち帰っちゃったって言うか」
「桜さんが?」
「う、うん。なんか酔っ払って、気がついたら…」
「いつですか?」
「あの、葵が久々顔出して恵比寿の日本酒が安くておいしいお店の…」
「マッスルナイトの日!?」

 桜は赤くなって、小さくなるしかなかった。
 はーっと七海が息をついて頭を抱えた。

「それ桜さんが持ち帰ったんじゃなくて…」

 そのとき、桜の携帯が鳴った。

「うっ。葵だ…」

 どうしよどうしよ?とあわてる桜の手から、七海は携帯を奪いとるようにして出た。
 仕事のことなら何でもばっさりと判断できるのに、こういうことに関してはまったく及び腰になってしまう自分を桜は情けなく思った。

「葵クン? あたし七海」

 携帯の向こうではどこにいるんだ?とか、桜をどうしたとか言ってるのであろう。そういう気配だけは感じた。

「うっさいなー。ちょっとこっちに話させなさいよ。とりあえず桜さんは、あたしが預かるんだからね。アンタは頭冷やしときなさいよ」

 葵が食い下がっているのであろう。七海に葵が何かを言い連ねている気配がして、桜はさらに小さくなった。

「知るか馬鹿! とりあえず、これ切ったらアンタのケー番は着拒の刑にするからね! ホントあたし、むかついてるんだから、しばらく反省しなさいね」

 ピッと軽い音がして通話を切って、七海はいくつか操作をして、にっこりと笑って桜を振り向いた。

「葵クン、明日から出張らしいですよ。しばらくイライラすればいいと思いマス!」

 だから、明日は家帰っても平気ですからねといって、すがすがしく七海は笑った。ということは、この洋服にまみれた部屋に自動的に泊まりなのか、どこまで聞き出されてしまうんだろうかと、桜は少し冷や汗をかいた。



「ちっ七海のやつ…」

 携帯を見つつ、葵は舌打ちした。完全にスタートダッシュの問題であっただろう。
 しかも明日からまた、仕事で海外だ。急に決まったので、桜には出張に行くことすら伝えそびれていた。なので今日中にひっ捕まえないとという焦りがに完全に裏目に出た。完全に自分の油断での失態だと、葵はため息をついた。

「桜は見つかりましたか?」

 気配がないのでとっくに消えたかと思ってた男がそこにいた。

「ええ。七海と一緒にいるようです」
「彼女が無事に帰ったんであればよかった」

 ムカッと少ししてしまう。というか、桜さんの手を思いっきり握ってたよな、こいつ…と、どす黒いものが葵の胸のうちに芽生えた。

「あの…大分桜さん、混乱してたみたいですが、一体何のお話をされてたか伺ってもいいですか?」
「ちょっとプライベートなことなんで…」

 すげーわかりやすいけん制だな、と思わず笑いそうになる。
 まぁそうだろうよ。バーで男と女が二人で飲んでて、しかも手を握ってるとか、プライベート以外なんでもないに違いない。そういう自分も客観的に見れば七海とデートしてるように見えなくもなかった。
 桜のあの瞬間の表情を思い出して、葵は胸が痛くなりそうになった。誤解はしてないと思うが、傷つけたと思う。
 そして、その前にこの男に対して向けた表情の暗さにも。彼女にあんな表情(かお)をさせるこの男は何者だと。
 そういうことを考えつつ、葵はぐっとこらえて情報をなるべく引き出さなければという思いで、いつもの柔和な笑顔を浮かべた。

「まぁ、そうでしょうけど、友達として彼女がああいう風にうろたえているのを見ると、心配ですし。どう考えてもアレは逃げ出しましたよね?」

 若干圧力をかけるように言った葵を、志岐はふっと笑って見つめた。

「友達、ね…。まぁ5年ぶりの逢瀬だったんで、彼女も混乱したんだと思う」

 ――5年!?

「あの?」
「ちょっと恥ずかしいな。僕が中国に赴任することでなんとなくあやふやになってしまって…」

 ――こいつが、桜さんの『初めての男』だ。

 そう思って葵は恋敵の顔をまじまじと見るしかなかった。
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