あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 コツコツとした靴音がかなり速い。
 あー。なんかめっちゃ怒って駆けつけた感じだなぁ、と思って入り口の方を見やると、隆《りゅう》がすごい勢いで歩いてきた。
 見た目は落ち着いてて完璧な男に見える。
 ただ、桜には頭から湯気出てマスヨと言いそうになるくらい、子猫を守る怖いお母さんライオンにしか見えなかったが。

「隆さん、ご無沙汰しております」
「ああ、久しぶり。今はチャイナにいるんだっけかな。確か君は」

 一見のんびりと隆は返す。だが声に温かみがまったくない。失敗を注意するときにも必ず、どこか温度がある隆の声なのに今はまったくそれを感じさせない。その事実が彼の感情を伝えていた。多少、彼と仕事をしたことがある志岐もその違和感に気がつかないはずはない。

「ええ。研修で戻ってきてまして。あと近々、帰国することになったのであいさつ回りを…」
「そうか。帰国できるのか、それはよかったな。ただ、関係ない部署に入り込むのはあまり感心しない」
「失礼しました。明かりがぽつりっとついていたので知ってる人がいるようなら、挨拶だけとおもいまして。懐かしい同僚がいたので、ついつい話し込んでしまいました」

 桜の方を見やってにっこり微笑む。

「なるほど、今回は見逃してやる。ただここの業務は機密を多く扱っているということも踏まえて以後気をつけてくれ。桜、遅くなってすまん。NYとのスカイプ会議を始めようか」

 言外に部外者はさっさと出て行け、機密の仕事やっとんじゃ、ボケ!というのをにじませながら隆は志岐を見ながら言った。

「わかりました。業務のところお邪魔しました。桜、またゆっくり話そう」

 そういって去っていく。
 志岐の気配が消えたところで、隆が桜の耳にかかっているヘッドセットを取り、話しかけた。

「坂野、連絡助かった。そっちの皆さんには謝っておいてくれるか」

 そういってスカイプを切り、固まっている桜に向き合った。

「大丈夫か?」
「き…帰国…ですか?」
「ああ。もうアイツも赴任5年だ。戻ってくる時期ということになったようだ」
「そうですか…。部署は……決まってるんですか?」
「……まだ微妙なところだな。ただ、安田常務の息がかかった人事なのは変わりがない」

 少し珍しく口ごもった隆に違和感を覚えたが、その違和感の正体がわからず、そのまま続けた。

「じゃー、接点は結構でそうな部署かもしれませんね。彼のキャリアを考えると、契約系かライセンスの部署の可能性が高いですね」
「アキから伝わってたかと思ったが、あいつも、うっかりしたみたいだな。俺からもらせばよかった、すまん」
「いえ。人事のことですから。隆さんが私の役職レベルに、この段階で漏らすのはあまりいいことじゃないですよ」

 ――あくまでOL達の噂レベルで流れる分にはしょうがないですけどね。

 そう冷静に言い添えたのを見て隆が苦笑して「送ってく」といって、桜を促した。


「本当に何があったか、話す気はないのか?」

 車の運転をしているので目線は前にして(りゅう)は桜に聞いた。
 桜が何度そう言われたか覚えてないくらい、折に触れて言ってくる。
 毎度ただ答えは決まって同じだ。

「男女間のことですから。隆さんには関係ないですよ」

 ――なので、どっちもどっちな事柄です。

 そう小声で告げる桜に隆は苦笑した。
 男女間…その言葉に隆は苦笑を禁じえない。確かに、桜にも非があったんだと思う。この口の噤みようから、それは感じている。ただ、桜の口から恋愛という甘い言葉が、この件からはまったく匂いもしないことが問題だと、隆は思っている。アキにもこの件については何も話さないらしい。だが…。

「志岐のやつ、よほどお前に未練があるようだな」
「は?」
「お前が冷静ならわかると思うが、あの時間にあの場所に来るって、絶対にお前のスケジュール確認して狙ってきてるぞ」
「……。まぁ、それは…、冷や汗が流れますね」

 社内政治を考えると、純粋な興味で桜にちょっかいかけようとしているわけではないだろう…。彼との間に横たわる因縁を考えると、好意とか興味とかはありえない。そんなことは命取りに近いと、桜はばっさり切った。

 スケジュールについては会議の予定などブッキングしやすいようにカエデグループ内の人間なら確認できるイントラネットで公開されている。
 社内の人間のスケジュールは公開している物に関しては、会社の人間であれば世界中の支社からでも見ることは可能だ。しかも今回は時間が時間だったし、なんと言っても、本社はノー残業デーだ。桜が一人でいる可能性が高いことはそのスケジュールを見た人間であれば容易にわかる。

「ちょっかい程度の話なら単純だが…」
「は?」
「……。今回はスカイプのヘッドセットつけててよかったな。坂野が早めにスカイプ入ったら、一人のはずの桜が話してて、相手はわからんが、様子が変だってことで連絡をくれたからな」
「あー。アホかと思ってたらちょっと使えるコになっててよかったデス。ま、帰国したらコーヒーでもおごってやりますかねー」

 …と一瞬思ったが、よく考えたら、このピンチの原因を作ったのは坂野であった事を思い出し、やっぱあいつお仕置きだ、と剣呑なことを考えた。

「桜。志岐が帰国したら本当に避けて通れれないぞ」
「そーですね。とりあえず配属と出方を見ないと…」
「お前のんきだなぁ」
「ショージキ狙いがわかりませんからね。ただ、彼の狙いがなんにせよ、私別に隆さんの下から退く気はないですから」

 桜は気負いなく答えた。

 志岐が所属する派閥としては現社長派の隆と対立する安田常務派だ。
 会社の規定で40歳以上でないと取締役に上がることは不可能なので、40歳手前の隆は、どれほど手柄を立てようと、現状これ以上の役職につくことができない。
 だからこそ、隆をつぶすのは非常な好機ともいえる。5年前、桜に対して仕掛けてきたというのは隆にとっても盲点だった。
 桜は自分が隆の弱点になったことに恐縮して何も言わないが、それだけ桜の力量が目立っているからこそ、彼らは狙ってきたということだ。

「俺も上に行くのに、お前を残していく気ないからな」
「そりゃーこんだけ尽くしてんですから、出世させていただきたいですヨ。ま、志岐さんのことはなるようにしかなりませんて」
「もしかすると単純におまえ自身が目的かもしれないぞ」
「あははー。それは無いでしょう。私なんか女の価値無しにもほどがありますから」

 だから来るならこいと、ただし、けんかを売られたら買うし、叩き潰す。そう言外に匂わせて、赤信号で止まって、ちょうどこっちを見ていた隆を見やり、瞳が揺るがないように自分をコントロールさせつつ、安心させるように笑って軽くため息をつく。 
 隆は内心、『女の価値』とか自分が女であることを嗤うようになったな、5年前から…とは思ったが。あまりに自信が無さ過ぎだが、桜は客観的に隆の目から見ても非常に魅力的な女性に見える。自分の愛弟子とも言える桜の自分自身に否定的な態度に痛みを覚えた。一体何があったんだか知りたくてしょうがなかった。
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