あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 それぞれの思いにふけって一瞬沈黙が流れた。
 桜は隆《りゅう》との出会いについて思いをはせていた。

 隆とは、桜が入社して最初の三ヶ月、彼がチューターとしてついてからの付き合いからだ。その後、2年半ばかり違う部署に配属されたが、しょっちゅうアキ達と共に飲みにいったりと付き合いは続いていた。この期間に隆の仕事に関する考え方や、想いなどを吸収した。
 組織上は7年だったとしても、彼に影響を受け、仕事のこなし方を習い、相談にのってもらい、自分は育てられた。だから、隆は桜の10年来の上司なのである。
 はっきり言うと、隆との出会いがあったからこそ、桜は仕事にのめりこむハメに陥ったといっていい。
 彼の存在がなければ、言われた仕事をこなすことで一応の満足を得るような、そんな風になってしまっていたかもしれない。
 また、男尊女卑とまではいかないが、女性社員はどうしても出世が遅い。そのことがなぜなのかということもきっと疑問にも思わなかったであろう。

 ――人々を豊かにする。そんな製品を世の中に出す。

 青い思想だ、と隆から最初聞いたとき笑いそうになった。
 30歳手前の男が大真面目にそう語るとか、普通ならありえない。
 だが確かに自分が自社の製品を好きなのだから、もっといろんな人に広めたい。もっとそういう商品を世の中に出したい。
 根本はその思いで仕事をしたいのは確かだった。
 桜自身、子供のころからカエデ電気の出したコンパクトオーディオプレイヤーを愛用している。この製品の良さや好きなところを語ったら結構長くしゃべることができるくらいだ。イヤホンの感度調整の良さ、低音のよさと価格帯のバランス、ユーザーインターフェースなどなど。

 豊かな製品やサービスは生活や気持ちを幸せにするのだ。
 『life is style』という企業スローガンを体現したい。
 予算目標のために製品を出すのではなく、職人と呼ばれる開発者達を組織の都合で左右したりしない。温かみのあるものを世の中に広めたい。

 隆は桜やアキ、そしてほかのそういう思いを共有にするメンバーを社内に増やしていった。
 そして、7年前に隆がECサイト事業を担当することになったときに、マーケティングの部署から引っこ抜かれて、そのまま彼の異動先に桜は一緒についてこさせられた。そうなると、行動を共にすることが多くなり、大きなプロジェクトのときに必ず桜の名前が挙がる。根も葉もないうわさも広がったが、結局のところ、ふたりの関係は上司部下……より正確に言えば、『同志』でしかない。桜は隆がじれるように焦がれている女《ひと 》の存在も知っている。それくらいお互いのことを知っているし、思いを共有しているつもりだ。
 自分達の思想や思いを体現化していく…。そうなると出世して会社の事業体や仕組みに手を入れていくということは外せない。それはつまり、社内政治、社内闘争の世界は切っても切り離せず、当然ながら、業務での結果を出していくと共にその世界へと放り込まれてしまったのも確かだ。

 それはわかっていたし、理解もしていた。ただ、自分がターゲットになることがあるということには思い至ってなかったのだ。だから――。

 そんな思いに沈んでいたら、携帯にメールが届いた。
 NYの会議をぶっ飛ばしたから坂野から今後の指針の相談かな?とか思ってチェックする。

「――ヒグッ!」

 なんともつかない叫びが口からもれ出た桜をぎょっと隆が一瞬見やる。

「お、ま、え、~、変な声だすなよ! 事故ったらどうするんだよ」
「す…すいませんっ」
「なんかアクシデントか?」
「あー。まぁ、アクシデントといわれれば、そうなんですが仕事じゃないので大丈夫、ええ、大丈夫デストモデス」
「仕事じゃないアクシデントってプライベートかよ。そもそも、そんなもんお前あったのか!?」

 驚きが隠せない隆に、桜は失敬なっとか言いつつ、まもなく通過しそうな中目黒駅前で下ろしてほしいと頼んだ。桜の様子を見てさらにあごが落ちそうになった。

 ――なんか、顔赤くないかっ!?
 あと、なんかなんか、目が潤んでる、気がする!?
 えーーー?
 桜が女に見えるぞ!?

 隆は呆気にとられつつも、駅前のロータリーに駐車した。『ありがとうございました』といって、桜が車から降りていくのを眺めた。
 しばらく立ち去っていく桜の後姿を見ながらひとりごちる。

 ――いやー。あの桜が頬を赤らめるとか!
 因縁の男からでも売られたけんかは買うっていったときに、まったく揺れもしなかった瞳がものすげー動揺してたぞ!
 どう考えても男だよな? 男しかないよなっ!?
 恋愛中枢壊れてる女にあんな顔させるとか。
 その男、ぜひとも、ちょーーーー見てみてぇ。
 タクシーだったら即効降りて後つけたのに、残念すぎるっ。
 例の『週末の失態』ってやつ?
 だったら、むしろ、据え膳作ってやるから、さっさと喰ってやってくれないかってお願いしたい。
 娘が目覚めてくれて、お母さんうれしいわーってこういう気持ちなんだろうか。
 って何で俺、お母さんなの!?

 自分でも訳のわからないひとりノリツッコミをしつつ、なんだか楽しくなってクツクツ笑いながら、隆は車を発進させた。
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