あの日まではただの可愛い女《ひと》。
据え膳に仕立ててやるから、さっさと喰われてしまえとか、長年の上司にそんな風に思われているのも知らずに、桜は路地裏の店へと急いだ。
「っあーーー。もう信じらんない。ありえない」
小声で悪態をつく。
確かに「出張から帰ってきました」とかいうメールを無視したのは桜のほうだ。
いやだって、坂野がスカイプ会議設定しちゃったしとか脳内で言い訳しても、メール一本返すくらいはできるのもわかってる。しかも失態の翌日に「ちょっと長めの出張行ってきます。お土産楽しみにしてて」なんて内容のメールに大分悩んで「いってらっしゃい、気をつけて」しか返さなかったのもまずかったかもしれない。
いやそれより、出張中に撮った今いる場所や面白かったものなどの写真付きのメールにほとんど何も返さなかったのがまずかったか?
いやまぁ、確かに失礼だろう。でもしょうがないじゃん。なんて返せばいいわけそれ。そんな親密なやり取り、距離感のわからない関係でどう返せば?
でもこれって単純に言い訳ですよねと、頭の中でいろいろと思い起こしては自分の失態を思い知る。
正直、今日そのメールが届いたときに、ついに帰ってきてしまったか、と非常に困惑してどうしていいかわからず、結果として放置…ということが正しい。そして先ほど受け取った2通目のメール。
バーの場所と名前、そして添付ファイルだけのメール。
添付ファイルを恐る恐る開いたら、例の失態のときにホテルに忘れてきてしまったと思っていた、ガーターベルトの画像……。
どういうメッセージかは明らかだろう。なんとしても行くしかない。
だってだって、あれは酔った勢いで自分がお持ち帰りしちゃったわけだし。
三十路すぎの女なんて価値ないわけだし。そもそも私、身長もでかくて、威圧感があって、女らしくないし。気もきっついから、きっと断れないというか勢いに流されてああなったんだろうし。
ってか、一体どういう顔して会えばいいの?
そんなことをつらつらと考えていた。
共通の趣味を持つ仲間として会うようになって3年間、10日ほど前までは何の意識もお互いしてなかったと言いきれる。
最初は足早に歩いていたが、指定された店に近づくにつれ、足並みが落ちる。
足並みは落ちるが、歩みは止まらないから、そのうち店の前に着く。
――あー。どうしよう。ホント。
仕事関連ならぜんぜん平気な顔が出来る。隆《りゅう》でも時々読めないことがあるところまでその技術を磨いてきている。だからこうやって戸惑っている自分に気がついて初めて、あの仲間達の前では顔や表情を繕う必要がなかったことに気がついた。
どう取り繕っていいのかまったくわからないのだ。うごうごと店の近くでほとんど足踏みをしていたら、後ろから肘をゆるく掴まれた。
「桜さん――」
「へうっ」
首筋に艶のある声音が響いて、ソクリと背筋が震えた。
桜は恐る恐る後ろを振り返った。
いつもの飄々として微笑んでるような顔で葵が立っていた。
「なっ……なっんでっ」
パクパクと口を震わせながら桜はつぶやいた。
「――なんでって?」
落ち着いた声音にからかいの気配を感じてちょっとイラッとする。
「なんで、待ち合わせの向かいの店から出てくるのよっ?」
狭い路地だから、葵が表れたのがちょうど背後にある店からだということがわかる。何でそんなところから出てくるのよ?といいたくなるのは普通だ。
「別にこの店で待ち合わせなんて書いてなかったデショ」
しれーっと言われて絶句する。
――イヤ普通に待ち合わせ場所だと思うよね? 普通は思いますよね?
なーんでそんなイジワル風味なの?
私なんかした? いやしたけど。
あの失態の夜は正直自分でもわけがわからないところが非常に多い。
というか、やっぱ失態自体まずいデスヨネ…。てかなんで私あんなことしちゃったんだろう?
ぐるぐると思考の小道にはまりだして、少し萎れた。
「あー。もう、なんでそういう顔するかなぁっ」
いらだったような声の葵を見上げるとなんだか、焦りが透けてるような表情で、桜の腕を引っつかんで、彼が出てきた店へと連れて行かれる。
雰囲気のいい小さいビストロという感じの店だった。窓のすぐ横の丸テーブルに葵に連れて行かれ、薦められるままにスツールに座る。すぐ傍に葵が腰掛け、ウェイターを呼ぶ。
「ピノ・ノワール好きでしたよね。あと、ここのカスレ絶品ですからぜひ食べましょう」
おなか減ってる顔してますよ、とメニューに視線を落としたまま、葵が言った。
目が合わないのが少し寂しい…気がするとか思ってる自分に気がついて、桜はまたまごついた。会話の糸口がまったく見つからない。
3年くらいの付き合いだが、そんなこと今までなかったのに。
よく考えたら2人きりで会ったことがない、ということにも気がついてより一層困惑する。
ワインが来たタイミングで葵がついでにいくつか料理の注文を伝えて、こちらを見た。黒目が多い柔らかな瞳がこちらを伺うように見つめている。
目が離せないまま、グラスを合わせて、ワインを口に含んだ。
葵は、先ほど店の前で見せた焦りのようなものが鳴りを潜めて、いつもどおり穏やかにのんきそうに見えた。
「こんな時間まで仕事だったんすか?」
「そうそう。海外とのスカイプの会議の予定が入ってたんだ」
だからバタバタしてメールの返信できなくてごめんね、と何とか言いつくろえたし、予定調和的な会話を穏やかに葵が始めてくれて、妙な緊迫感が薄れたような気がした。
運ばれてきた料理に舌鼓を押しつつ、お互いたわいもない話をする。
――ああ。きっとこれで大丈夫。
次回会ったときにはもういままで同様な感じで会える気がする。
そんな風に素直に思えた。
きっと葵は桜を気にして、みんなで会って気まずい思いをするよりも、さきに何事も無かったように接してわだかまりを解いてくれたんだろう。やっぱいい子だなぁ~、葵って。メール無視して悪かったなぁ。私って自意識過剰だわ、などと思って、桜はほっとした。
「結局準備したのに会議できなかったんすか?」
「そーなの。ちょっとアクシデントがあって」
部下の坂野のおかげでノー残業デーに会議をするハメに陥った話でひとしきり盛り上がったときに、葵が桜の髪に触れた。
「糸くず、ついてますよ」
つるりとした髪に軽く触ってすぐに手を離す。
何気ない葵の行動だったが、桜は数時間前に志岐に触れられたことを思い出して一瞬体を強張らせた。
「桜さん?」
怪訝そうな目線を葵が投げてきたのでごまかすように、ワインを口に含もうとグラスに手を伸ばす。
目に見えて手が震えていて自分でも嗤いそうになって手を引っ込めようとした。
「ど、どうしたんです――?」
訳がわからないが、葵がとりあえず、桜の手に自分の手を重ねた。
大きくて筋張っていて、暖かい手の感触に、それがすごく優しく自分を撫で回した記憶がよみがえって、ドキリとするよりも先に安心した。
「ちょ、スゲー手、冷たいんすけど…。俺なんかしましたか?」
「や。ちょっと…、仕事で、思い出して」
力なく首を横に振りながら、まったく説明になっていない説明を、精一杯、桜は口にする。葵は何も聞かずに、じっと手をつかんで暖めた。カタカタと細かく震えていた手がだんだん収まってくる。
「ご、ごめんごめん」
そういって桜はいったん手を引っこ抜いて、ぺちぺちと手の甲をたたいた。それを葵は浚うように両手を握り締めた。しかも葵の片手だけで。
――手、大きいなぁ。やっぱり。
桜はなんだか、頭が一瞬にして、甘くしびれたようになってしまい、あまりいろいろ考えられないことに気がついた。
葵は空いてるほうの片手で店の人を呼び、会計をして、そのまま桜を促して店を出た。店を出たのはすでに夜中をすぎていたから、繁華街とはいえ、人はまばらだ。
葵は桜の手を引いて、だまったまま、しばらく桜のマンションがある方面に向かって歩き出した。
少し無言で歩いて、葵が掠れた声で決心するように言った。
「桜…さん」
「うん?」
「今夜は、俺んち泊まって?」
静かに言われた言葉を反芻する。言葉の意味を飲み込んで、つかまれた手がピクリと震えた。たぶん誤解したであろう気配を読んで葵が言い募る。
「何もしないから。こんな状態の桜さんを一人にしたくないですよ」
「…。何も聞か、ない?」
「言いたいなら聞くけど、話したくないんでしょ?」
言いたくないかもしれない。でも話したいのかもしれない。
ずっと誰にも打ち明けたことのないことを、葵には話してもいいのかどうかが、判断がつかない。話すとしてもなにから話せば、何を話せばいいのかもわからない。
「は、なしたくないっていうより…何を言えばいいか、わか、んない、の」
たどたどしい口調で桜は言った。それを聞いてぎゅと葵が手を握って桜を抱きしめた。
「っあーーー。もう信じらんない。ありえない」
小声で悪態をつく。
確かに「出張から帰ってきました」とかいうメールを無視したのは桜のほうだ。
いやだって、坂野がスカイプ会議設定しちゃったしとか脳内で言い訳しても、メール一本返すくらいはできるのもわかってる。しかも失態の翌日に「ちょっと長めの出張行ってきます。お土産楽しみにしてて」なんて内容のメールに大分悩んで「いってらっしゃい、気をつけて」しか返さなかったのもまずかったかもしれない。
いやそれより、出張中に撮った今いる場所や面白かったものなどの写真付きのメールにほとんど何も返さなかったのがまずかったか?
いやまぁ、確かに失礼だろう。でもしょうがないじゃん。なんて返せばいいわけそれ。そんな親密なやり取り、距離感のわからない関係でどう返せば?
でもこれって単純に言い訳ですよねと、頭の中でいろいろと思い起こしては自分の失態を思い知る。
正直、今日そのメールが届いたときに、ついに帰ってきてしまったか、と非常に困惑してどうしていいかわからず、結果として放置…ということが正しい。そして先ほど受け取った2通目のメール。
バーの場所と名前、そして添付ファイルだけのメール。
添付ファイルを恐る恐る開いたら、例の失態のときにホテルに忘れてきてしまったと思っていた、ガーターベルトの画像……。
どういうメッセージかは明らかだろう。なんとしても行くしかない。
だってだって、あれは酔った勢いで自分がお持ち帰りしちゃったわけだし。
三十路すぎの女なんて価値ないわけだし。そもそも私、身長もでかくて、威圧感があって、女らしくないし。気もきっついから、きっと断れないというか勢いに流されてああなったんだろうし。
ってか、一体どういう顔して会えばいいの?
そんなことをつらつらと考えていた。
共通の趣味を持つ仲間として会うようになって3年間、10日ほど前までは何の意識もお互いしてなかったと言いきれる。
最初は足早に歩いていたが、指定された店に近づくにつれ、足並みが落ちる。
足並みは落ちるが、歩みは止まらないから、そのうち店の前に着く。
――あー。どうしよう。ホント。
仕事関連ならぜんぜん平気な顔が出来る。隆《りゅう》でも時々読めないことがあるところまでその技術を磨いてきている。だからこうやって戸惑っている自分に気がついて初めて、あの仲間達の前では顔や表情を繕う必要がなかったことに気がついた。
どう取り繕っていいのかまったくわからないのだ。うごうごと店の近くでほとんど足踏みをしていたら、後ろから肘をゆるく掴まれた。
「桜さん――」
「へうっ」
首筋に艶のある声音が響いて、ソクリと背筋が震えた。
桜は恐る恐る後ろを振り返った。
いつもの飄々として微笑んでるような顔で葵が立っていた。
「なっ……なっんでっ」
パクパクと口を震わせながら桜はつぶやいた。
「――なんでって?」
落ち着いた声音にからかいの気配を感じてちょっとイラッとする。
「なんで、待ち合わせの向かいの店から出てくるのよっ?」
狭い路地だから、葵が表れたのがちょうど背後にある店からだということがわかる。何でそんなところから出てくるのよ?といいたくなるのは普通だ。
「別にこの店で待ち合わせなんて書いてなかったデショ」
しれーっと言われて絶句する。
――イヤ普通に待ち合わせ場所だと思うよね? 普通は思いますよね?
なーんでそんなイジワル風味なの?
私なんかした? いやしたけど。
あの失態の夜は正直自分でもわけがわからないところが非常に多い。
というか、やっぱ失態自体まずいデスヨネ…。てかなんで私あんなことしちゃったんだろう?
ぐるぐると思考の小道にはまりだして、少し萎れた。
「あー。もう、なんでそういう顔するかなぁっ」
いらだったような声の葵を見上げるとなんだか、焦りが透けてるような表情で、桜の腕を引っつかんで、彼が出てきた店へと連れて行かれる。
雰囲気のいい小さいビストロという感じの店だった。窓のすぐ横の丸テーブルに葵に連れて行かれ、薦められるままにスツールに座る。すぐ傍に葵が腰掛け、ウェイターを呼ぶ。
「ピノ・ノワール好きでしたよね。あと、ここのカスレ絶品ですからぜひ食べましょう」
おなか減ってる顔してますよ、とメニューに視線を落としたまま、葵が言った。
目が合わないのが少し寂しい…気がするとか思ってる自分に気がついて、桜はまたまごついた。会話の糸口がまったく見つからない。
3年くらいの付き合いだが、そんなこと今までなかったのに。
よく考えたら2人きりで会ったことがない、ということにも気がついてより一層困惑する。
ワインが来たタイミングで葵がついでにいくつか料理の注文を伝えて、こちらを見た。黒目が多い柔らかな瞳がこちらを伺うように見つめている。
目が離せないまま、グラスを合わせて、ワインを口に含んだ。
葵は、先ほど店の前で見せた焦りのようなものが鳴りを潜めて、いつもどおり穏やかにのんきそうに見えた。
「こんな時間まで仕事だったんすか?」
「そうそう。海外とのスカイプの会議の予定が入ってたんだ」
だからバタバタしてメールの返信できなくてごめんね、と何とか言いつくろえたし、予定調和的な会話を穏やかに葵が始めてくれて、妙な緊迫感が薄れたような気がした。
運ばれてきた料理に舌鼓を押しつつ、お互いたわいもない話をする。
――ああ。きっとこれで大丈夫。
次回会ったときにはもういままで同様な感じで会える気がする。
そんな風に素直に思えた。
きっと葵は桜を気にして、みんなで会って気まずい思いをするよりも、さきに何事も無かったように接してわだかまりを解いてくれたんだろう。やっぱいい子だなぁ~、葵って。メール無視して悪かったなぁ。私って自意識過剰だわ、などと思って、桜はほっとした。
「結局準備したのに会議できなかったんすか?」
「そーなの。ちょっとアクシデントがあって」
部下の坂野のおかげでノー残業デーに会議をするハメに陥った話でひとしきり盛り上がったときに、葵が桜の髪に触れた。
「糸くず、ついてますよ」
つるりとした髪に軽く触ってすぐに手を離す。
何気ない葵の行動だったが、桜は数時間前に志岐に触れられたことを思い出して一瞬体を強張らせた。
「桜さん?」
怪訝そうな目線を葵が投げてきたのでごまかすように、ワインを口に含もうとグラスに手を伸ばす。
目に見えて手が震えていて自分でも嗤いそうになって手を引っ込めようとした。
「ど、どうしたんです――?」
訳がわからないが、葵がとりあえず、桜の手に自分の手を重ねた。
大きくて筋張っていて、暖かい手の感触に、それがすごく優しく自分を撫で回した記憶がよみがえって、ドキリとするよりも先に安心した。
「ちょ、スゲー手、冷たいんすけど…。俺なんかしましたか?」
「や。ちょっと…、仕事で、思い出して」
力なく首を横に振りながら、まったく説明になっていない説明を、精一杯、桜は口にする。葵は何も聞かずに、じっと手をつかんで暖めた。カタカタと細かく震えていた手がだんだん収まってくる。
「ご、ごめんごめん」
そういって桜はいったん手を引っこ抜いて、ぺちぺちと手の甲をたたいた。それを葵は浚うように両手を握り締めた。しかも葵の片手だけで。
――手、大きいなぁ。やっぱり。
桜はなんだか、頭が一瞬にして、甘くしびれたようになってしまい、あまりいろいろ考えられないことに気がついた。
葵は空いてるほうの片手で店の人を呼び、会計をして、そのまま桜を促して店を出た。店を出たのはすでに夜中をすぎていたから、繁華街とはいえ、人はまばらだ。
葵は桜の手を引いて、だまったまま、しばらく桜のマンションがある方面に向かって歩き出した。
少し無言で歩いて、葵が掠れた声で決心するように言った。
「桜…さん」
「うん?」
「今夜は、俺んち泊まって?」
静かに言われた言葉を反芻する。言葉の意味を飲み込んで、つかまれた手がピクリと震えた。たぶん誤解したであろう気配を読んで葵が言い募る。
「何もしないから。こんな状態の桜さんを一人にしたくないですよ」
「…。何も聞か、ない?」
「言いたいなら聞くけど、話したくないんでしょ?」
言いたくないかもしれない。でも話したいのかもしれない。
ずっと誰にも打ち明けたことのないことを、葵には話してもいいのかどうかが、判断がつかない。話すとしてもなにから話せば、何を話せばいいのかもわからない。
「は、なしたくないっていうより…何を言えばいいか、わか、んない、の」
たどたどしい口調で桜は言った。それを聞いてぎゅと葵が手を握って桜を抱きしめた。