ボレロ - 第二楽章 -


「君の名前を言わなかったのは悪かった。

だから、そろそろ機嫌を直してくれないか」


「だからって、なにが、だからなの?」


「なぁ……このまま別れて会えなくなるかもしれないのに、

こんな気分のままじゃ未練が残るよ」


「おおげさね。それにどうして会えなくなるの? 出張に行くだけなのに」


「飛行機事故に巻き込まれるかもしれないじゃないか。

テロにあうかもしれない。墜落したらまず助からないよ」


「公共交通機関で一番安全なのは飛行機です。

事故の比率からみても、車や電車の何倍も安全ですから」


「じゃぁ、君が事故にあうかもしれないじゃないか。 

明日から関西に出張だったね、新幹線は飛行機の何倍も危ないんだろう?」 


「縁起でもないこと言わないで」


「確率の問題だ。いついかなる危険が襲い掛かるか、

誰にもわからないということだよ」


「話をすりかえないでよ」


「君が言い出したんじゃないか」



こんな言い合いをするために会ったのではない。

わかっているのに、意地になって言い返している自分を止めることができな

かった。

私に言い聞かせるのを諦めたのか、何度目かのため息をついたあと 

「送るよ……」 と彼の沈んだ声がした。

外に出た途端、キンと冷えた空気が体中にまとわりつく。 

「寒い……」 と、思わず声にするとすかさず手が伸びてきた。

冷たい風から私を守るように抱きかかえて歩き、ときおり耳に添えてくれる

手は、短い髪からのぞく耳を冷気から防いでくれるのだとわかっていながら、

素直にありがとうと口にできなかった。



この程度の雪なら空港の閉鎖はなさそうだけど、高速道路は速度制限がありそ

うね……

彼が言うように飛行機事故があるとは思えないし、起こってもほしくない。

わだかまりを持ったまま別れるのは、気まずさを残すだけ。

張り続けた意地をほどき、アメリカへ旅立つ人へメールを送った。


『雪だけど道路は大丈夫? 気をつけて……いってらっしゃい』 


ほどなく返信があった。


『幹線道路に支障はない。飛行機も定刻に出発の予定。では10日後』


事務的で素っ気無いメールだった。 

けれど ”10日後” の文字が次の約束を示している。

短い文面から、私のことを気にしていたのだと充分に感じられた。

雪の朝に感化されセンチメンタルになったのか、画面を見つめる視界がぼんや

りとにじんできた。


『待っています 珠貴』


素直な気持ちを文面に込め送信した。


今日は明るい色のコートを着ようかな。

近畿地方も雪模様であるとニュースが告げている。

厚手のジャケットを選び、出張先の気候にあわせた準備をすすめた。




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