夜に生まれた子供

03

 家の前まで来ると、私は丘を越えた先にある森をようやく振り返った。森は彼らの領域だ。臆病な彼らがその静かな森から出てくることはない。
 ひたすらに歩き続けて、体は少し火照っていた。手に持っていた桶と籠を地面に置き、溜息を吐く。予定していたよりもとってきた果物や菜の量は少なくなってしまったけれど、後はおばあちゃんの畑で採れた根菜と鶏肉があるから、それで事足りるだろう。
 森の中で私を呼んだ声が身体中に纏わり付いているようだった。それを振り払う様に、私は首を振る。こんな時は料理をするのに限る。それに集中していれば、余計なことは考えずに済むのだから。
 昼食の時、アドネは料理を褒めてくれた。それがお世辞ではないと分かったから凄く嬉しかったのを思い出す。随分長い間おばあちゃんと二人でしか食事をしてこなかったから、それが当たり前で、誰かに料理を褒められるのはとても久しぶりのことだったから。俄然やる気が湧いてくる。アドネはどんな食べ物が好きなのだろう。また美味しいと言ってもらいたい。喜んでくれた顔を見たい。
 出会ったばかりなのに、彼女は人といることがこんなに幸せな気分にさせてくれるのだと私に思い知らせる。

 夕食を作っていると、ガタガタと風が格子窓を揺らした。雨が降るのかもしれない。
 手に持っていた小金瓜(こがねうり) を木板の上に置き、前掛けで手を拭いて窓の外を覗き込む。案の定、空はどんよりとした雲で覆い尽くされていた。日干しにしていた野菜をさっと中に入れる。木台に上り、食器棚の上に置いてあった籠を下ろした。中にはまん丸な目をした握り拳ほどの丸くて白い毛玉が入っていた。雨の気配を察したのか、嬉しそうにそわそわとしている。
 私はそれを両手で掬いあげると、そのまま玄関先へと走った。扉を開けると、ちょうどいい具合にぽつぽつと雨が降り出し始めていた。手の中の毛玉はぽんっと勝手に私の手から飛び出すと、ころころと地面を転がっていく。
 あんまりに静かなので時たま忘れかけてしまうけれど、この家にはおばあちゃんと私以外の住人がいる。正しくは、住獣とでも言うのだろうか。台所の棚の上で静かに暮らすその獣は、私が此処へくる前から居る。先住獣には敬意を払わないといけない。彼女か彼かは見当もつかないけれど、あの小さな毛玉は、雨が大好物なのだ。干からびてしまわない様に、雨の日には外に出してあげないといけない。後は放っておけば、雨が止む頃にはいつの間にか籠の中に戻っているのだ。
 私はころころと丘を転げ落ちていく毛玉を見送ってから、家の中に戻った。顔を上げるといつの間に居たのか、アドネと目が合った。
 私は驚きで思わず目を見開いた。もう歩けるのだろうか。
「ヘンリエッタ、どうしたの? なんだか急いでたみたいだけど」
 不思議そうに訊ねられて、私はなんでもないという風に首を横に振った。雨だから毛玉を外に出していたなんて言っても、訳が分からないだろう。
「濡れてるよ」
 そう言ってアドネは私の髪を撫でた。ぽたりと水滴が落ちる。目の端に亜麻色の髪が映った。胸下まで伸びた髪は、頭を洗う時に使っている森の花のお陰か、艶やかで痛みもない。最初は違和感を持っていたいけれど、今では私の自慢になっていた。だから「綺麗だね」とアドネに褒められて嬉しくなると同時に少しの罪悪感を感じた。私の髪の色は、元々夜空の様な黒だった。それではこの場所では生きていけないよと、おばあちゃんに亜麻色に変えられたのだ。だからこれは私本来の色ではない。
 アドネの羊色の髪は、森の外に住む人々にとっては普通の色なのだろうか。森から出たことのない私にはそれが分からなかった。それをアドネに訊いても怪訝な顔をされるに決まっている。
 そんなことを考えているうちに、小さなくしゃみが出た。上からくすくすと笑い声が振ってくると同時に、上着を掛けられた。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。ありがとうと言う代わりに頭を下げると、やっぱり綺麗な笑顔で返してくれた。おばあちゃんと二人っきりが寂しいわけでもないけれど、やっぱり人といるのはいいなと思ってしまう。暫くじゃなくって、ずっと此処にいてくれればいいのに。

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