いつか、きみに、ホットケーキ
20. 誰かの
最後の蝉の声を聞いたのはいつだろう。朝晩冷える秋の入り口あるいはもうその入り口から少し中に入っているのかもしれない。、とても久しぶりに大沢と撮影現場で一緒になれた。

「飯、食いに行かない?」
と、湖山が話しかけると、大沢は一瞬なにか戸惑ったような表情をした。かつてこんなことがあっただろうか。
(そうか・・・結婚するんだ)
もう、こんな風に気軽に誘えなくなるんだろうか、と寂しくなる。

「用事があったかな・・・」
無理させないように断りやすいような言い方を考えたけれど気の利いたことは思いつかなかった。また自分だけが取り残されてしまうような、そんな気がする。そして、そんな下らない感傷じみた考えも、多分大沢は全部お見通しなのだ。

「いえ、ないです。」
いつものようににっこり笑っている大沢をみると、そんな感傷に浸った自分は愚かしく、多分なんでもない些細な事に神経質になっていただけなんだろうと思う。

スタジオを出ると、秋のつるべ落としとはよく言う空が暗く、少し肌寒いくらいの空気に夜の始まりを感じる。湖山はパーカーのジッパーをぐっと衿元まで上げたのと大沢が振り向いて「寒くないですか?」と言ったのが同時だった。

「うん、大丈夫」と答えた湖山を、大沢は少し疑わしそうに見ている。湖山が歩き出すと、大沢は追いかけるように歩きだした。

駐車場に向かいながら訊いてみようか、でも、訊かなくてもいいか、どうしようか、どうしようかと湖山の頭の中を巡っているのは、さっき誘った時の一瞬の間のことだった。もしかしたら本当は、彼女と何か約束があったのじゃないか、ちょっとしたことでも、たとえば、「今日早く帰るよ」って言ったとか・・・。

もう、一緒に住んでいるんだろうか・・・?

湖山には関係ない。そう、関係ない。行く、と言っているのだから、大丈夫なのだろう?

「マ・ク・ロ・ビ・オ・ティ・ッ・ク」
湖山は注意深く発音した。
「って、言うんだって」
先日菅生さんに連れて行ってもらった体にいいレストランに大沢を連れて行こうと思っていた。揚げ物もいいけど、体に気を使うのも大事な事だ、老婆心、という奴。

大沢は少し怪訝そうな顔をしている。湖山は少し得意な気持ちになってここぞと年上らしい説教を試みたが、大沢が急に大きな声で笑う。

「マクロビオティック、知ってますよ。常識でしょう?なんで今更そんなこと・・・。年、気にしてるの?ねえ、湖山さん、マクロビオティックはね、月に一回とか、一週間に一回とか、そんなんじゃ、効き目はないんだよ、分かってる?」

「そうかもしれないけど、たまに気を使うだけでも十分じゃないか・・・。大沢くんさ、ちょっと揚げ物とか多すぎると思うよ。」

「体が欲しがってるの、まだ、若いから。胃がもたれるようになったら考えます。湖山さんだってまだそんな年じゃないでしょう?あ、それとももたれちゃうのか?」

「そういうことじゃなくて!結構美味しいよ。菅生さんが、教えてくれたんだ」

「へえ・・・」

そうだ、あのレストランは、本当は、大沢が結婚すると知った日、厳密に言うと、結婚する大沢がその事を教えてくれなかった、と知った日、菅生さんが連れて行ってくれたレストランだった。体に必要なものを噛み締めながら、自分の苛立ちを吐露した日。

大沢、結婚するんだ・・・。

重たい機材を入れたバッグを背負っている大沢の背、肩。いつもそこにあった頼りがいのある湖山のアシスタントは、もう、湖山の為だけに重い荷物を背負う訳ではない。別の誰かの為に、そして、大沢自身の為に、あるいは、彼が守り続けると決めた誰かの為に荷物を背負う。

暗闇の中でみると妙に大人びた大沢の顔に湖山は吸い寄せられるように感じる。規則的に揺れる前髪。いつもは柔和そうに下がっているのに、こうしていると意志が強そうな目と眉・・・。

そして不意に大沢が振り向いて湖山は急に現実に引き戻された。

「駐車場、あるのかな、その店?」

大沢の声が夜の始まりの中に浮いている。その質問の内容をもう一度理解し直しながら答えていく湖山の声はいやにぼんやりとのんびりとしていた。大沢は車のキーを開けて、湖山が乗り込むのを見守っている。後部座席に重そうなカバンを積んで運転席に乗り込み、シートベルトを締めた手を少し止めた。

「湖山さん、スーツは着ないんですか?」

大沢が唐突にそんな質問をする。そして、ハンドルに少し寄りかかるようにしてエンジンを掛けた。

「スーツ?」
スーツを着た最後の日はいつだったかな・・・。と考える。あぁ、一昨年くらいの知り合いの結婚式。そうだ、結婚式だった。次にスーツを着るのは、大沢の結婚式だ。

街路樹の隙間に白く三日月が見えた。見えては、隠れ、隠れては見えた。湖山は月と追いかけっこをしているような気持ちになる。街路樹を抜けて、都会の景色のどこかに上手く隠れてしまう月を見失うまでは追いかけていようと思った。

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