夜香花
「そうでなくて。もっと深い心構えっていうのかしら。お家のために人生の全てを捧げることには、抵抗があるのではなくて? わたくしや阿菊は、もう産まれた時からそういう風に育てられましたから、自分の自由など、端から頭にありませんでした。自分の人生の大きな岐路は、全てお家のため。自分の気持ちよりも、お家優先で考えるように。もちろん結婚もね。……ほほ、わたくしは幸いにも、殿のような素晴らしいお方と結ばれることが出来ましたけども」

 微笑む利世に、信繁は照れたように、わはは、と笑った。
 そして、利世の膝にいる幸昌をあやす。

「でも、嫁ぐまでは殿のことも知りませんでしたし、どういう方か、ということは父よりお聞きしておりましたけども、それだけです。今のお前と、同じですね。でもね、わたくしはそれが当たり前だった。殿の元に嫁ぐのに、何の疑問も持たなかったわ。父の決めた縁組みに従うのが普通でした」

「わらわも、小十郎様に嫁ぐことに、疑問はありませんよ」

「心はどうかしら。於市、婚儀が近づくにつれて、また体調を崩しがちになったわね。心を殺さないと、辛いのではない?」

 言いながら、利世は、そ、と伸ばした手で深成の瞼に触れた。

「このまま表の世界で生きていくことは、辛いかもしれません。言葉はともかく、印は……消えませんから。見る人が見れば、その意味もわかってしまいます」

「細川め。何と言うことをしてくれたのか」

 憎々しげに、信繁も呟く。
 深成自身には見えないので忘れがちだが、瞼にははっきりと、意味のある印が彫られているのだ。

「生涯消えないようなものを残すとは。何か疑いを持たれるようなことが、あったのだろうか」

「殿の子だとまでは思わなくても、少しの疑いはあったのかもしれませんね。お屋敷内では全く普通に振る舞っていても、六郎や五助殿の仕込んだものは、自然と出てしまうこともありましょう。細川の殿も、それなりの武将です。何か他と違うところを見破っても、おかしくありません。まぁ、於市はまだまだ幼かったし、まさかこんな小さな女子が間者とまでは思わなかったでしょうけど」
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