くじらを巡る冒険
§7 駅舎物語
 「あんたみたいなのが東京でやっていけるとは思えないんだけど」
 木造りの小さな駅のホームで、綾がセーラー服の裾にくっついた埃を払いながら言った。
「うるせーよ」
 真上から容赦なく照りつける日差しを手で遮り、優斗が口を尖らせる。
「ま、いーけど。どうせすぐ出戻ってくるんだろうし」
 綾は駅舎の時計を見遣り、ホームから伸びる線路の先に目を向けた。緩いカーブを描く単線の線路には、等間隔に枕木が敷かれ、そこかしこから伸びた雑草と混ざりながら陽炎に溶けている。
「ま、いーけど」
 同じ言葉を繰り返し、やっと取れた埃をホームに投げ捨てた綾は、汗で額に張り付いた前髪を煩わしそうにかき上げながら俯いた。
「なんだよそれ」
 と呟いたきり、優斗は木造の駅舎ごしに見える景色をぼんやりと眺めた。暑苦しいほどに晴れ渡った大空と、深々と生い茂った三岳山の稜線。そのくっきりと別れた境からせり出した真綿のような雲の合間を、一羽の鳶が気持ちよさそうに旋回している。見慣れたはずのその景色が、今日はやけに遠くに見える。
「あ、来た」
 顔を上げた綾の声に振り返ると、1両編成の列車がゴトゴトと近づいて来るのが見えた。
 ――ギ……ギギーーッ!!
 列車が車輪を軋ませて停車する。
「……じゃあな」
 ガラガラとうなり声を上げている列車のタラップに足をかけ、優斗は染み入るような笑顔を綾に向けた。
「あ、あのさ、あたしのお母さんが着いたら電話寄こせって。ううん、着いてからも時々かけてこいって」
「……分かった」
 油のような独得の匂いが鼻をつく。
「ホント心配性で困るわ。なんであんたがあたしのお母さんに電話しなくちゃいけないのよって話よね。まったく」
「はは、でもうちも似たようなこと言ってたぜ」
 優斗は馬鹿でかい鞄を持ち上げ、苦笑いして続けた。「ま、俺がこんなだからな。よっぽど頼りないんだろ。叔母ちゃんに分かった、電話するって伝えといてよ」
「うん。言っとく。あと、東京ってこっちよりメチャクチャ熱いから、部屋にクーラーがないうちは熱中症に気をつけろってお母さんが言ってた。アイスばっか食べてたら太るから、ちゃんと運動もしろって。そ、それから!どーせすぐに弱音吐いて帰ってくるんだろうけど、そんなことしたら絶対町に入れないからね。男でしょ。行くと決めた以上はドーンと……」
「綾」
 シャツが汗で吸い付くのも気にせず喋りまくる綾の頬を、優斗が優しく撫でた。

「泣くな」

「な、泣いてなんか」
 綾の言葉を遮るように、列車の扉が重たげに閉まった。顔を上げると、扉の向こうで優斗の笑顔が泣いていた。発車を告げる笛が鳴る。ゴトリと動き出した列車の扉を、綾はバンッと思い切り叩いた。
「バカ!」
 まるで二人を見守るように、列車がゆっくりと車輪を軋ませる。
「バカ野郎!」
 扉を叩く綾の足が駆け足になる。
「バカ!」
「バカ!」
「ホントバカ!」
 綾が扉を叩くたびに、列車は少しずつ二人の距離を引き離し、やがて綾は短いホームの端っこで行き場を失った。
「優斗のバカァ!!」
 小さくなっていく列車に向かって叫んだ綾の声は、蒸し暑い風に乗り、何処までも晴れ渡った大空に向かって舞い上がった。



「駅舎物語」完
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