涙の跡を辿りて
 朝、起きてシーツをまさぐると、微かな温もりさえなく、ケセは驚愕した。
 一人でシンシンリーに帰ったのか!? 
 慌てて裸足のまま、ケセは靴をはくのも忘れて部屋から飛び出した。
 台所から、良い匂いと歌と、物音がする。
 その扉を開け放つと、腕まくりしたヒトカが食事を作っている最中だった。
「ヘセ!」
 ヒトカが嬉しそうに扉に視線をやり、そしてすぐに自分の手許に視線を移す。
 バターの匂いと玉子のじゅっという音。
 オムレツだろうか?
「ヘセ、お腹すク。ヒトカ、お弁当作ル。ヘセ、お腹すカナイ」
 言うなり、ヒトカは手首の返しでオムレツをひっくり返した。器用なものである。ちなみにケセにはそれが出来ない。だからケセはちょっと羨ましく、妬ましい。
「ヒトカ? お弁当って言っても僕しか食べないんだぞ?」
「ソウ、だけど、朝ご飯モいる、デシょウ?」
 言い返せなくて、ケセは台所のテーブルに着いた。そこにおいてある重箱には色とりどりの目にも楽しいお弁当。
その隣に皿があった。綺麗なドーム上に盛り付けたチキンライスからは湯気が立ち上っていた。
 ヒトカがフライパンからオムレツをチキンライスの上に乗せる。そして、フライ返しでオムレツを割ってチキンライスを覆わせた。
「朝ご飯、出来タ」
「有難う」
 朝からオムライスとは、胃が心配だとケセは思った。だが、無邪気な笑みを見せるヒトカにそんな事は言えないし、オムレツを使ったオムライスは白身がプルプルとして美味しそうだった。食欲が急激に刺激される。
 その日はそんな始まり方だった。
 食後、後片付けをするヒトカを見やりつつ、ケセは出かける準備をした。
 ケセは模写がしたかった。
 美しい初夏のシンシンリー。
 毎年、何処か面影が変わるシンシンリーを、この目で見て、耳で聞いて、肌で感じたかった。作家としての血が騒ぐ。童話も書きたい。絵本も書きたい。
 昨日や今朝の物思いは何処へやら、今は『表現者』としてのケセがそこにいた。
「よし、準備出来たっと」
 ケセがそう言うとヒトカも手を拭く。
「ヒトカ、洗い物、出来タ、ヘセ」
「じゃあ、行くか? 早いうちのほうがいい」
 こくりとヒトカは頷いた。
 ヒトカは、ケセに内緒にしていた事がある。
 浮かれた風を装って、必死で隠し続けてきた秘密がある。
 だが、それはついに口にされる事は無かったのであった。


「ヒトカ!? ヒトカ!! ヒートーカー!!」
 ケセは初夏のシンシンリーを彷徨う。
 ただ一人の名を呼びながら。
 さっきまで夢中で模写していた。今年のシンシンリーはいつにもまして美しく思えるのは気の所為であろうか?
 何枚の画用紙に描いた事であろう。
 ケセはいつの間にか差し出された食事を、機械的に食べながらも、全身でシンシンリーを感じる事に夢中になっていた。食後、ヒトカが重箱を片付けた。その時までは確かにヒトカがいた。
 今はいない。何処を探してもいないのだ。
 涼しい位のシンシンリー中腹。
 ケセはヒトカの名前を大声で呼び、右へ左へ東へ西へと、走りまわる。リュックサックは何処に置いたのであろう? そんな事は忘れてしまった。
 誠心誠意込めて描いた資料、シンシンリーよりもケセにはヒトカが大切で。
 だが、何処にもいない。いないのだ。
「シンシンリー、助けてくれ! ヒトカを返してくれ!!」
 だが、ヒトカが自らシンシンリーに戻ったのであれば?
 それはありえない話ではない。何故ならヒトカは精霊なのだから。
 ああ、来るのではなかった! もしくは一人で来るべきであった!!
 不意に木の根に足を取られ、ケセは転倒した。山の斜面をごろごろと滑り落ちて行く。
 途中の木の根で腹を強かに打ち、滑り落ちるのはやっと止まった。
 ヒトカ……。
 腹を打った所為で口から漏れるのは言葉にならない呼吸音。
 ヒトカ、君は何処だ?
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