涙の跡を辿りて
「しんしんりー? ヒトカ、行く!!」
 ヒトカは大きな目を見開いて後ろを振り向き、そして顔をしかめた。
 夕食後、ケセはヒトカの髪をフランセルからもらった櫛で梳いてやっていたのだが、ヒトカがいきなり振り向くから、長い髪が引っ張られてしまったのである。
「イタイッ!」
「自業自得。前を向いて。髪にこの櫛を挿してやるから」
 器用に、ケセはヒトカの髪の毛をまとめた。見よう見真似であるが、それでもそれらしくなった。長い髪が結い上げられる。髪に挿された櫛のエメラルドがヒトカの瞳に合った。
 ケセの胸がどくんと高鳴る。
 ヒトカのうなじのあまりの細さに驚いたのだ。それは白くて滑らかで、……。
 ──興奮した。
「ヒトカ、キレイ?」
 鏡に自分の姿を映していた精霊は、今度はゆっくり振り返る。
 その瞳に、エメラルドはよく映える。
「綺麗だ、ヒトカ」
 ケセは溜息をついた。ほっとしたのである。
 あのままうなじを見つめていたら自分はヒトカに、ルービックがケセに強いたのと同じ事を強いたであろう。
 それは恐ろしい事であった。
 ヒトカを好きだからこそ、覚えてはならない激情だった。
 違うだろう? 好きと言うのは相手を傷つける事ではないだろう?
 そう思うケセはまだ幼い。肉体の伴わない『好き』に翻弄されている。
 だが、何と細く折れそうな首であろう。
「ヒトカ、キレイ。ヒトカ、ウレシイ」
 微笑むヒトカを見て、ケセはぎゅっとヒトカの頭を自分の胸に押し付けた。唇を奪いそうになったのを理性が制したのだ。
 今、キスしたらやばい……!
 それは直感。
 しかし、そんなケセの気持ちなど知る由も無いヒトカは無邪気にこう言った。
「ヘセ、どきどき。ヒトカに、どきどき?」
 心臓の音を聞かれていた事に気付き、更に心拍数が跳ね上がった。
「ヒトカ! 離れろ!!」
「イーヤ。ココ、ヒトカの居場所」
 両腕でヒトカの肩を押すがヒトカはケセの腰にいつの間にか抱きついていて離れない。この細い腕の何処にそんな力があるのか。
「ヒトカも、どきどき。ヘセ、一緒」
 そう言って、ヒトカは顔を上げた。
 そこで上目遣いは犯罪だろうが!!
 思った瞬間、ケセはヒトカの唇を『奪わされた』。
『奪った』のではない。『奪わされた』。
 ヒトカは純情で天然に見えるが、実は好きな男に唇を『奪わせる』事が得意だった。
 漏れる吐息は快楽と共に、こんなに貴方が欲しかったのだと伝えるキィでもある。ヒトカは子供の姿をしていたが、何も知らない子供ではなかった。
 ケセの事は、ケセ以上に良く知っていた。

 だってヒトカ、ずっと見守ってきた。精霊の女王の水鏡から。

 甘い舌を味わいながらヒトカは思う。
 この舌はヒトカのもの。
 この甘さを知っていいのはヒトカだけ。
 ヒトカはしがみつく腕に力を込めた。
 本当に、愛しい人。
 漸く、唇が離れた。唾液が糸を引く。それがひどく、淫靡に見える。
 好き。
 好き以上に好き。
 だから、穢したくない。
 その想いをこの精霊は知っているのだろうか? 理性と欲望の葛藤の狭間で少しばかり愚かになりつつある自分が恐ろしかった。
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