涙の跡を辿りて
 ところが翌日からは生憎の雨だった。『精霊の樹海』などで作業が出来る筈もなく。
 仕方なく、ケセは二階の作業場でヒトカが入れた紅茶を飲み、そう急ぎの仕事でもない童話を書いていたが、心は絵本に飛んでいた。
 童話に集中出来ない。
 それがどれ程辛いものかは物書きにしか解らないだろう。
 書きたい作品が今そこにあって、もうすぐ完成する。
 書かなくてはならない作品を疎かにも出来ない。何故なら読者がいるからだ。
 読者との関係を大切にする作家なら自分が書きたい物と求められている物で悩んだ事は絶対にある筈だ。
 だが、目の前にその作品がある時、その時位はその作品に集中したい。
 ヒトカは隅でレース編みをしている。すっかり手芸好きになってしまったヒトカが精霊であるという事を、ケセは時々忘れそうになる。
 何か作りたいというヒトカの為にレース編みの本とその他の道具を与えたのはケセである。だが、こうまで大真面目に取り組んでいるヒトカを見るとケセは自然と口元に笑みが浮かんでくるのを抑える事が出来なかった。
 ヒトカの心中を考えるとケセは笑えなかったであろうけれども。
 ヒトカは死ぬ為の準備をしているのだ。
 女王は『さいご』と言った。だがそれは『最期』ではなかろうか?
 ヒトカには恐怖はない。
 心の中は凪いだ海のように、深く静かに、その時を待っている。
 精霊である事が叶う内に死ねるのであれば、世界に還る事が出来る。そうすれば四大の元素に姿を変え、ケセを見守る事も可能だ。
 例え何物でもないものとして死んでも、輪廻からは外れるが、それでもケセの傍にいる事が出来るかもしれない。
 今のヒトカの幸せは総てケセに繋がる。
 そして、今の幸せが永遠に続けばよいのにと思いながら鈎針で繊細なレースを編んでいく。これは女王に。衣装の襟元にでも飾って下されば幸せだと思いながら。
 ケセはヒトカが編んでいるものが何かと聞きはしない。
 本当はテーブルクロスの縁飾りやコースターを作りたかった。
 それは人間の娘達が結婚の申し込みを受けたときに作り始めるものであった。
 だが自分は人間の娘ではない。人間ではない。女ではない。
 ヒトカは時々訝しげに思う。
 なのだとしたら何故、ケセに対して世話を焼いてしまうのだろう? まるで人間の娘のようにケセの為にアレもしたいコレもしたいと思ってしまうのだろう? 
 ヒトカは性別がないというよりまるで少女だった。
 台所でも仕事部屋でも、そして褥の中でも。
 どうして自分は女ではないのだろうとヒトカは思い悩む。、切実にヒトカは悩みつつ、女性のようにレース編みに勤しむ。あああ、本当に少女だったら良かったのに! 
 そうしたらケセの花嫁になれたかもしれないのに。
 髪が長くてうっとうしい。だけれども、ケセのように髪を切ってしまうわけには行かなかった。ヒトカの髪はヒトカの力の象徴なのだ。
 ケセは前髪の長さが頬の下まであるくせに後ろは襟足が短い。茶色の髪は光に透けると黄金色に見える。生きている黄金に。
 瞳は琥珀色。感情の揺れ動きにあわせて色が変わるのだが、人々は知らないだろう。
 何故なら、ケセは人々の前では感情を隠しているから。
 人間が、ケセには怖いのだ。
 故にケセは一人で暮らしてきたのである。
 ケセの気持ちが昂ぶったとき、その瞳は金色へと変わる。ヒトカを抱く時のように、金色に変わったその色彩の美しさよりも美しいものを、幼い精霊は知らない。あえて言うなら精霊の女王だけであろうが人と神を比べるのは畏れ多い事だ。
 色白で、華奢。
 身長がケセとヒトカで殆ど変わらないのはケセが成長期、充分な栄養を与えられなかったからだ。
 時折、ヒトカは不思議に思う。
 何故、ケセは誰も恨まないのだろうと。
 嫌な事は嫌だと思う。それは知っている。だが、ケセはルービックに義理立てしているし、誰かに愚痴を吐き出した事もない。
 シンシンリーの用意は整っていた。
 愛し児(めぐしご)さえそれを望めば、一息のうちにクーセル村は滅ぼされたであろう。
 だが、ケセは違った。
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