涙の跡を辿りて
 ケセは一日の労働を終え、寝付く前に必ず祈るのだ。
 例えば。
『今日はこんなに美しい物を見る事が出来ました』
『今日は風が温かくて気持ちの良い日でした』
『今日のスープにベーコンが入っていました』
 そして最後にこう言うのだ。
『有難うございます、シンシンリー』
 これでどうして精霊がケセの事情に介入できようか? ケセは十六の頃から十七までクーセル村を離れた。それでも、愛し児はシンシンリーへ毎日のささやかな祈りを忘れた事がなかった。
 ヒトカが家に来てからもそれは変わらなかった。
 その事に、ヒトカはどれ程安堵したか知れない。精霊の女王程気紛れなものは存在しないのだから。もし、突然自分達に捧げられている祈りが失われたら……恐ろしかった。どう気紛れを起こすか、見当もつかない。
「ねぇ、ヒトカ」
 不意にケセがヒトカに声を掛けたのでヒトカは吃驚してしまった。
 だけれども、愛しい人の唇から紡がれた自分の名前に、ヒトカは嬉しくなる。
「ケセ、何?」
 弾んだ声でヒトカは問う。
 その時、ケセの顔が申し訳なさそうに変わっていくのをヒトカは見逃さなかった。
「何?」
 再び問うとケセは目頭を押さえた。
 コレは知っている。
 ケセが困ったときの表情だ。
「悪いんだけれども、暫く下に降りていてもらえないか?」
 ヒトカは笑って頷いた。
 邪魔をしてはいけない。
 泣くわけには行かない。
 ヒトカは背筋を伸ばすとテーブルの上に広げてあったレース編みの材料を片付けるとすぐ下に降りていった。
 居間で作業をしよう、ヒトカはそう思う。
 最初の作品であるパッチワークはケセに贈った。それは今、二人でスプリングを揺らすベッドに掛けられている。
 ふと思い出してヒトカの顔は真っ赤に染まった。
 もう秋だ。時間がない。

 時間がないのだ。

 ベッドの上でどんどん貪欲になっていくヒトカをケセはどう感じているだろう?
 いやらしい奴と思われているのならそれはそれで仕方ない。だが嫌われたならばこの心臓は破裂してしまうだろう。
 鈎針を手の中で弄びながらヒトカは考える。
 最期のその瞬間まで、ヒトカはケセに愛されたかった。
 僕の我儘を、許して下さい。


 ケセは隠していたリュックサックを取り出すと、大慌てで作業を開始した。
 勿論『恋の歌』である。
 糊が乾くまで一日かかるのだとロトから聞いていたケセは時計を睨みつける。
 十五時。明日の十五時までヒトカをこの部屋に入れる訳には行かないのだ。糊を棚からおろしてはっとする。まだ糊付けできる段階ではなかった。気が焦ってしまっていたらしい。まず、糊を使えるように準備しなくては。
 周囲が広範囲にわたって汚れるのでケセは宗教勧誘のチラシを広げるという暴挙に出た。ケセにとっての神はシンシンリーであり、一口幾らと寄付を求めるようなものではない。そして自分の衣服を点検する。別に汚れても構わない格好だったが、後でヒトカが吃驚してしまうかもしれないし、それより悪い事はヒトカが作業場で何を作っているのか興味を持った場合だ。それなので、上から長い割烹着を着た。これはヒトカのオリジナルである。
 最初、割烹着なんて女みたいだと駄々をこねていたケセも、その便利さに慣れてしまうと何枚か予備に作って欲しいとお願いする事になった。
 その時浮かべたヒトカの得意げな表情!
 表紙の見返しは淡い緑と卵色の色調。若々しい新緑のイメージである。
 裏表紙からの見返しは悩んだ末、赤と茶色と金色の葉が散っていくイメージにした。
 奥付にサインを入れる。大きな飾り書体で鮮やかに。そして『ヒトカ様へ』という言葉を入れるのも忘れない。ヒトカが文字を読めなくとも、それはそれでいいのだ。ヒトカだけの絵本である事が解るよう、ヒトカが眠っているときにスケッチした絵のデフォルメ画も書き込んだ。
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