涙の跡を辿りて
 ヒトカには目を覚ますと反射的にシーツの上に手を滑らせてケセの存在を確かめる習慣がついていた。
 だが、今日はケセ本人も温もりも無い。
「冷たイ……」
 ありとあらゆる悪い予感が、ヒトカの胸をよぎった。人の姿を取れぬ下級精霊に尋ねてみたが、彼らは答えてはくれない。
 だがそれで行き先がはっきりした。
 ケセはシンシンリーにいる!
 それも女王、ディオヴィカの許に。
 そうでないなら精霊達の沈黙の理由が解らない。ヒトカはディオヴィカの愛し児であるのだから。
 女王! いや、ディオヴィカ様!!
 ヒトカにケセをお返し下さい!!
 ヒトカはそう心の中で叫ぶと、昨日買ってもらったズボンとセーターに外套を羽織り、飛び出した。
 その時、ヒトカの脳裏にディオヴィカの声が響き渡った。

──予定は早まった。雪の名残を待つ必要は最早ない。そなたが総てを賭けた者、取り戻したくば疾く来よ──

 ぎり、と、ヒトカは奥歯を噛み締める。
 何処に行けばよい?
 何処に行けば取り戻せる?
 広いシンシンリー中を彷徨うのも手であろう。人には見つけられぬ奥の宮の一室一室を検めてみるのもまた手である。
 だが、心当たりが多すぎて、ヒトカは頭が痛くなる。
 そして己の身体……!
 半分は精霊だ。だが、残り半分は、最早精霊とは言えない。余りに人間臭いのだ。
 この身体で神住まりの山に分け入ることが出来るのだろうか?
 シンシンリーには結界が張ってある。目に見えぬもの。だけれども、惑わしの効果のあるもの。
 『精霊の樹海』で朽ちゆくものの中には、シンシンリーの結界を突破できず、彷徨い人となったものも数多く存在するのだ。
 怖がっちゃ駄目だ。
 ケセを取り戻さないと。
 ヒトカは進む。奥歯をぎしぎし言わせながら。ただ、歩く。
 空腹を感じた訳ではないのに、周りの木々から生気を分けてもらうのは結界を強行突破する為だった。
 結界は人間を阻む目的で作られた。だから、強度はそんなに無い筈だ……と、いうより、なければ良いと思うのはヒトカの希望的観測だった。だが、誰が大地母神の七番目の娘が住まう山に害意を与えようとするだろう?
 樹海を抜けて、そして結界へ。
 その時、結界はヴェールのように揺れた。そのまま結界はヒトカを包み、彼はそれに心地良さを覚えた。
 結界の魔力か?
 ヒトカは内にためた力を解き放とうとする。
 だが。
 ──そんなに牙をむき出しにせずお進み。こんなところでそなたを試験するつもりは無い。今はな──
 ディオヴィカが面白そうにくつくつ笑っている。今はという事は後で試験されるのだろうか? そんな事を考えると空恐ろしくなってくる。それとも、自分はもう結界の虜で、女王の言葉を自分の都合の良いように想像したのか!?
 結界がヒトカの身体を解放した。
 そして、ヒトカが恐る恐る一歩踏み出すと、そこはシンシンリーであった。
 結界に阻まれなかった。
 外界とは空気の味が違った。
 こんなに気に満ちている所を他に知らない。
 そう、ヒトカは思う。
 しかし、それ故にケセの気が隠されてしまって、彼を探すのが困難であるのも、また、事実。
 還ってきた。
 ヒトカの頬を涙が伝う。
 そして、もう、最期なのだ。
 夢は終わったのだ。
 後はディオヴィカに死を賜るのを待つだけ……。
 そこまで考えてヒトカはふるふると首を振った。
 宿命だとか運命だとか、そんなものクソ喰らえだ。
『恋の歌』に、ケセが描いて見せたように、二人、死ぬまで一緒なのだ。ケセが老人になるまで、天寿を全うするまでは生きなくてはならない。
 一歩、また、ヒトカは踏み出す。
 あてがあるわけではない。だけれども、諦めるという選択肢だけはなかった。
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