涙の跡を辿りて
 お茶の席に着いたケセは、豪奢な午餐を楽しんでいた。
 よく考えてみればケセは昨夜から今朝方にかけて、激しい性愛を交わしながら、今まで何も食べていなかったのである。もう、太陽は西に傾きかけているというのに。
「うむ、健康的な食欲は見ている妾も楽しいものじゃ。さぁ、このパイも食べるが良い。さぁ、さぁ」
 ケセはもうお腹が一杯だと思ったが、この女王に逆らうのが怖くて、大人しくパイに手を伸ばす。果実のパイは甘すぎず酸っぱ過ぎず、口の中でとろけるようだった。
 しかし、いい加減、この辺りで辞退して、自分の願いを聞いてもらわなくては。和やかにお茶を楽しんでいる場合ではないのだ。
「あの、ディオヴィカ様……」
「何じゃ? 紅茶のお代わりかえ?」
 のほほんとした様子のディオヴィカに、ケセはどう答えて良いのか解らない。単刀直入に聞くのもどうかと思い、とりあえずケセは気になっていたところを質問した。
「何故、フランセル嬢の姿でいたのですか? ディオヴィカ様」
「その事か。あの娘は死を望んでおっての、樹海に入り込んだ訳じゃ。深い悲しみが人を浄化することがあるのを、そなた、知っておるかえ? フランセルは自分を裏切った駆け落ち相手も、いらぬ結婚を強いた父親も、見て見ぬふりをする母親も、誰も憎んではおらなんだ。しかしのう、恨む事が出来ぬというのも考え物じゃぞ。悲しみを昇華出来ぬからのう、このシンシンリーにまで迷い込み、泣いておっ妾は何故かその娘が捨て置けぬでのう、介抱した訳じゃ」
「そうだったのですか……」
 それはケセの全く知らないフランセルの姿だった。死を望むなど、信じられない。
「そうじゃ。そしてお互いの利益に繋がるよう、妾達は取引した。妾はフランセルの恋心を喰らう。記憶までは喰らわん。想いだけを喰らったのじゃ。そしてフランセルは妾の為にそなたの絵本を手に入れるという、な」
「そんな……そんな事が」
「出来るのじゃ。くれぐれも妾を見くびるでないぞ。代償は死、解っておろうな。そなたが真実の言葉でしか、妾の心を惹かぬという事を知れ。虚飾は空しいだけ。大仰に述べる者には針の椅子を。そして嘘吐きには死を」
 くすり、と、ディオヴィカが笑った。美しい笑顔は、ケセが取り戻した記憶のままだ。たとえ言っていることが物騒だとしても、その笑みの美しさが損なわれる事はなかった。
 ケセは一瞬、その美貌に飲まれて言葉を失う。長い睫毛の奥、新緑の目はじっくりとケセの顔を観察している。
「僕は……クーセル村の皆を、助けて欲しいのです」
「嫌じゃ」
 にべもなく、ディオヴィカは断った。
「後二百年ほどそのままにしておいてな、眠りを解こうと思っておったのじゃ。きっとあれらは大混乱に陥るぞえ? 同じ村人以外知る者もなく、彼らは世界に取り残されるのじゃ。面白いとは思わんか? 我が愛し児よ。そなたとヒトカは妾が愛し児。妾の大切な者達が害されんとして、どうして妾が黙っていられようか」
 精霊の女王の瞳が、エメラルドのように深みを増した緑色に変わる。
「そなたは我が愛し児。精霊になりたいと思うならそうしてやらん事もない。シンシンリーで一生を終えたいと望むならそれでも構わん。好きな道を選べ。代償は伴うが妾に出来ることなら何でも叶えてやろう」
 ケセは唇を噛んだ。
「大体そなた。総てを思い出し、まだあの村に義理立てする必要があるのかえ?」
「あります」
 ケセは言い切った。
 琥珀の瞳は金色に変わり、ケセの本気を物語っている。
 ディオヴィカは溜息を吐いた。
 大人びた言葉遣いが似合うが、見た目はまだ十にもならぬ少女を悲しませたかと思うとケセは猛烈な罪悪感が襲い掛かってくるのを感じた。だが、引けぬ。
 愛情がなくとも、憎悪出来ないクーセル村。そしてルービック。
 誰か一人でも自分の為に不幸に飛び込むのは嫌だった。
「仕方ないのう。助けてやらん事もない」
 ディオヴィカの言葉にケセの表情は雲間に光が差し込んだかのように明るくなった。
「そなた、代償がある事を忘れておりはせんか?」
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