涙の跡を辿りて
ヒトカの章2・幼く無知なる子供
 ヒトカは気付いたらベッドの中にいた。
 それは馴染んだベッドではなかった。マットレスは硬いし、布団は藁を詰めた質素なものだった。
 ケセのベッドとも、自分が精霊として使っていたベッドとも違う。
 身体の節々が痛かった。特に手の先と足の先が刺す様に痛かった。
《痛い……》
 ヒトカは小さな声で囁いた。
 此処は何処だろう?
 狭い部屋だった。小さなストーブには火が入れられ、窓は分厚いカーテンで覆われていた。お陰で今がいつ頃なのかが解らなかったが、そのカーテンが暖かさを逃さぬ手伝いをしているのも解ったので、ヒトカはカーテンを開ける事は止めておいた。
 大体、身体が痛くてそれどころではないのである。何故こんなにも痛いのか。
 生まれてから百十九年、こんなに歩いた事は無かった。夜が来ても、朝が訪れても、ヒトカは休む事無く歩き続けた。
 手足の感覚の無さが怖かったが立ち止まってしまうと、もう歩けなくなりそうだった。
 月も星も太陽も、ヒトカの心を真に慰めるには至らなかった。シンシンリーの美しさに目を留めるだけの余裕が、今のヒトカには無かった。
 だからゆっくり周囲を見渡すのは久しぶりだった。
 よくよく見れば、鏡台があった。ピンや何かが神経質なほどぴったりと並べられていた。櫛の数は少なかった。化粧品などは並んでいなかった。
 その様子から、あまり身なりに気を配らない女性の住処だと容易に想像出来る。
 持ち物も驚くべき少なさであった。
 ヒトカは部屋の隅の行李に目をやった。四つ、並んでいた。何という物の少なさか。
 この殺風景な部屋に、ヒトカは何だか心が寒くなる。何故だろう?
 この部屋に蓄積された悲しみや絶望がヒトカの心を締め付けるのだ。
 何故、この部屋の持ち主はここまで苦しんでいるのだろう。
 ここまで暗い気持ちの感じら れる部屋にいると、精霊とはもう呼べないとはいえさすがに気分が悪くなってくる。
 この部屋の住人は何故こうまで悲しみをためたのか。鏡台の蝋燭が却って痛々しい。
 その時、下から足を引きずるような音が聞こえてきた。ゆっくり、ゆっくり、階段を昇ってくる音。それでヒトカには、ここが一階ではない事がはっきりと解った。
 足音はヒトカの眠っている部屋の前に着くと、いきなり扉を開けた。
 ヒトカは吃驚してしまい、声が出せない。
 しかし、入ってきた老女は、ヒトカが半身を起こしているのを認め、微かに笑った。
《ヒトカ、だね?》
《は、はい》
《私はミリエル。もうすぐ務めを終える巫女だよ。あんたが頑張って自分一人の力で此処まで辿り着こうとしているのを水鏡で見ていた時は笑っていたのだけれどもね、五日かかって本当にやってくるとは思わなかった。でも、手も足もボロボロ。私がただの医者なら切断するしかなかっただろうね》
 ヒトカはぞっとした。
 ミリエルは笑う。ヒトカの青褪めた顔を見て。心底面白いものを見ている表情だ。
《馬鹿だね。私はただの医者じゃない。こんなんでも巫女は巫女さ。今の痛みはすぐ引く。さぁ、薬湯をお飲み。手足の痛みをとってくれるよ》
《貴女が……巫女ミリエル……助けて下さって有難うございました》
 ヒトカは頭を下げる。思ったより、悪い人間ではなさそうだった。
 そういえば、ケセが言っていた。心底悪い人間などいないのだと。皆、善の特性を持っているのだと。
 ケセの境遇で何処をどうひっくり返したらそんな言葉が出てくるのか、大いに悩むところではあったが、そういう所もヒトカは愛していた。素晴らしい特性だと思っていた。
 だが、ミリエルは嘲る。
《あんたを助けたのは恵み深き女王様に貸しを作れると思ったからさ。あんたなんかどうなろうと構わなかった。本当にね、あんたは女王様のお気に入り。私は女王様に疎まれ、それにも関わらず、この土地で五十年間もの間、女王様の為に祈りを捧げなくてはならない哀れな巫女。私はね、女王様に一度も名前で呼んで頂いた事が無いんだよ》
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