涙の跡を辿りて
 ヒトカは身体が震え出すのを止める事が出来なかった。恐かった。剥き出しの悪意はさっき薬湯を薦めてくれた時には無かったのに。
《何しているんだい。薬湯をお飲み。口移しでも飲ませるよ。でないと手足が使い物にならなくなる》
 渡された薬湯を、ヒトカは怯えながら飲み干した。
《それで良いんだよ、ヒトカ》
 そうしてヒトカを見つめる目には優しさがあった。だが彼女は次に残酷な言葉を発する。
《さぁ、私はあんたの命と手足の恩人だよ。どういう事だか解るね?》
 ヒトカは目を見開いた。
 代償を、支払わなくてはならない。
 命と手足、それはどれ程恐ろしい代償だろう? ヒトカは今、精霊としての力は殆ど使えないのに! ミリエルは何を求めるだろうか? しかも、代償を払わねばならぬ事はこれだけではないのだ。
 ディオヴィカの望みをかなえる品を、この巫女なら知っている筈だ。少なくとも、ヒント位は。
《私から、ヒントが欲しいのなら、代償は高くつくよ? それでもいいなら、答えてやろうじゃないか。でもまずは命と手足の代償を払ってもらう。そうだね、何が良い? お前に選ばせてやろうじゃないか。赤の苦痛、緑の眠り、青の飢え、さぁ、どれがいい?》
 くつりと笑うミリエルにヒトカは恐る恐る聞いた。どれもろくでもなさそうだったから。
《具体的に、どのようなものなのですか?》
《それを教えて選ばせるのは面白くないじゃないか》
 ミリエルはますます笑みを深くする。口元は猫の爪のように綺麗なカーブを描いている。
《では》
 ヒトカは息を吸い込んだ。
 眠りが一番楽そうだと思ったが、目が覚めなかったら大変だと思いなおした。飢えは体験した事が無いものだ。耐えられるかどうか、全く解らない。
 それならば。
《赤の苦痛を》
 ヒトカの言葉に、ミリエルは目を眇めた。勇気のある子供は嫌いじゃない。
 だが、女王の愛し児だと思うと憎さが先にたつ。ミリエルは女王が嫌いだった。
《ヒトカ、聞いたら変更は出来ないよ?》
《構いません》
 ヒトカは言い切った。
 本当は恐かったけれども、恐いと思う自分を恥じた。
 ケセの氷像を思い浮かべたのだ。
 逆らったり争ったり逃げようとしたりした痕は無かった。瞳さえ閉じず、まっすぐ正面を見つめていた。
 あの覚悟が自分にもあれば。
《ヒトカ。見ての通り私は足が悪い。生まれつきのものだ。女王様から授けられた力でも癒せなかった》
 ミリエルはスカートとペチコートを捲り上げた。その左脚は普通の脚だった。
 だが右脚は太腿から脹脛まで異様に細い。そして足が極端に小さい。
《私の足では、茨の谷を降りる事は出来ない……だけれども、あんたなら可能だろう? 私が落としたものを取ってきて欲しいんだ》
 茨の谷と聞いて、ヒトカは唇を噛んだ。力の使えない、シンシンリーの聖地の一つ。深い谷底は四季に関わらず、美しい薔薇を育でいる。
 だが、谷の崖は茨で覆い尽くされているのだ。しかも力が使えないから、その茨の棘に突き刺されながらしか、上り下り出来ないと聞いている。
 まさしく『赤の苦痛』というに相応しい事である事よ。ロープなどをくくりつける木はないし、大地に傷をつける事がディオヴィカによって禁止されているので鉤縄を使ったりする事も出来ない。
 茨を掴んで谷を降りるしかないのだ。
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