涙の跡を辿りて

◆◆◆
 ケセは屋敷を出たくなかった。
 だけれども、『シンシンリー』という言葉にはひどく心が惹かれた。それに、お父様がお誘い下さったのだ。
「良い子にしていられるか? 馬車が揺れても、文句は言わないか? 途中から歩きだが泣いたりしないか?」
 静かにしろという言葉くらいしか、ケセは父の言葉を聞いた記憶がなかった。だから長々と話しかけてくれた事が嬉しかった。
 実際は、子供を預けると、体面を保つために持ち物や何やらに余計な出費がかかるというのが理由であった。それ故、ケセの両親は六歳半のケセを連れて行く事にしたらしい。
 そして、もう一つの残酷な理由。こちらが本当の理由だと言っていい。
 クーセル村という辺境の村へ。サフィアは旅に耐えられないだろうと親戚に預けられた。それにも随分と金がかかったようである。幼いケセがそれに気付いたのは母の衣擦れの音だった。
「お母様、いつもと音が違う、スカートの音」
「お前は気にしなくて良いのよ。タフタのペチコートはみんな売ってしまったの。サフィアの為ですもの。母親であるわたくしが贅沢をしていてはいけないわ」
 貴婦人の嗜みとして、二度も三度も裏返しては縫った貧相なドレスを着ていても、ペチコートは真紅のタフタだった。母の唯一の贅沢だった。
 ケセにはどういう事だかさっぱり解らなかったが、家にお金が無いから、ケセが大好きなさらさらという衣擦れの音がしなくなったのだと思い、悲しくなった。
 だが、いつの間にか準備は総て出来た。後は旅立つだけだ。。
 サフィアが泣いている。でも、サフィアは行かないんだ、そう思うと妹が生まれてから初めて両親を独り占めできるということに喜びを感じずにはいられなかった。
 暗い喜びである。
 だが、その事を懺悔したくとも、ケセにはその時神様がいなかった。告白したり許しを得たりする神様がいなかった。
 シンシンリーまでの旅は長く険しいものだった。その旅の最中、所々にある郵便局を兼ねた宿屋やパブで、サフィアの具合が悪くなって薬代が足りないという親戚からの手紙を受け取った。
 母は自慢の銀髪をばっさりと切って売った。踵まであった髪は少年のように短く切られてしまった。
 そして父は先祖代々伝わってきた銀の短剣を売り払った。
 勿論ケセが持っていた祖父の形見の品など、とうに質流れだ。
 どちらもサフィアの為に親戚に送金する為の金策だった。
 両親がケセを売らなかったのは家名を継ぐ跡取りだったからだろう。女だったら、間違いなく売られていた事であろうと、ケセは幼い頭で必死に考えた。
 実際には違う理由があったのだが。
 ケセにはどうして両親がそこまでするのか解らなかった。
 そして漸くクーセル村についた頃、馬車で十日の距離だった事を思えば、ケセが空腹なのは頷けよう。宿屋の一階が食堂になっていたので、そこでとりあえずシンシンリーへの案内人を探そうと両親があちらこちらのテーブルに声をかけている間に、ケセは店の主人に勧められるままに食べた。
 主人には哀れであったのだ。シンシンリーは確かに霊山である。だが、そこへ行こうという奇特な案内人は現れないであろう。
 神住まりの山を侵す事が出来ようか。
 どんな事を吹き込まれてきたのかは知らないが、さっさと帰ってこの痩せぎすの男の子にもっと食事を摂らせる事だ。
 この少年の青い瞳。こんなに綺麗な瞳が飢えた光を宿している。
 宿屋の主人には子供がいた。丁度ケセと同じ年の子供だ。ケセより薄い色の青い瞳の。
 だから子供がこんなに飢えた瞳をすることが余りにも痛々しかった。
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