涙の跡を辿りて
 やがて両親が戻ってきて、テーブルの上に並んだ皿の数に驚いてケセを殴った。母親が髪を引っつかみ、顔を固定する。そして父親がその顔を何度も殴った。
 店主は慌てた。
「おやめ下さいまし、ご主人様、奥様。これはお坊ちゃまにわたくしめが勝手にご馳走した品でして、そうでなければ……」
「貴族は施しを受けぬものだ。この子の身体にもその事を徹底して教える時がきたようだ。それだけだ。勘定は幾らだね? 店主」
 店主は初め、ケセの両親が頼んだ料理の品数だけの金額を述べた。しかし、それでは納得しようとしないので、仕方なく店主は自分のささやかな好意に値段をつけた。
 勘定を済ませると、両親はケセを宿の自分達の部屋に引っ張っていった。
 可哀想に。店主はそう思う。
 あの空の様に青い瞳がいつか総てを憎む様になるのではないかと心配したのだ。
 その頃、宿の一室でケセはハンカチの猿轡を噛まされ、安物の葉巻を腕に押し付けられていた。
「──!!」
 ケセが身をよじると母親はケセの腹に蹴りをいれた。ケセの瞳に涙が浮かぶ。溢れる。
「どう致しましょう、貴方」
 母はそう言って憎々しげに猿轡故に嘔吐したものを飲み込まなくてはならなくなった息子を見やった。どうやら鳩尾を蹴ってしまったようだった。だが、母は頓着しない。
「この子の馬鹿げた食べっぷりで随分とかかったのですわよね? 案内人を雇おうと思って分けておいたお金にも手をお付けになったのではなくて?」
「その分はすっからかんだ。だが、金があっても案内人になってくれそうな者達はいない。麓の樹海に入る事すらとんでもない事だと言った男の顔を覚えているだろう?」
 夫の言葉に妻は頷いた。
「馬鹿げていますわ、ねぇ、貴方、わたくし達だけでも行きましょう。サフィアの命がかかっているのですもの。ああ、可愛いサフィア……わたくしの赤ちゃん」
「サフィアが可愛いのはお前だけではない。私も同じだ。おい、ケセ、ハンカチを取ってやる。口から漏れたモノを綺麗に掃除するんだ。はっきり言って、掃除代に余分な金を請求されても払える状況じゃないんだ。ケセ、解るな?」
 こくこくと、涙目でケセは頷いた。猿轡代わりのハンカチが外される。その瞬間、吐いてしまい、ケセは父親の靴を汚した。その靴で顔を蹴り上げられる。ケセの鼻から血がぽたぽたと溢れ、絨毯を汚した。
「このクソガキ!」
 父の罵声からケセを救ったのは母だった。
「お止め下さいませ、貴方」
 ケセははっとした。

 母様が僕を庇って下さっている!?

 ケセの喜びを、しかし、母は踏みにじった。
「こんな騒ぎを起こしたら下に聞こえかねませんわ。わたくし達の醜聞で卑しい者達の耳を喜ばせるおつもりですか?」
 父の動きが止まった。
 貴族たるもの泰然とあれ。
 そう教育をされている父は感情を爆発させた事を恥じた。
「すまない」
 父が母に謝る。父は母には頭が上がらないのだ。
「幸いな事に赤とオレンジの絨毯ですもの。鼻血は目立たぬようにわたくしが処理致します。ケセ、お前はまずお父様の靴を綺麗になさい。舐めて綺麗にするのです。それからそこに吐き出だしたものも、高いお金を払ったのですよ? 全部お腹に入れなさい。それから片付けて、終わったら眠って宜しい」
「お母様の寛大さに感謝するんだな。だが、明日、少しでも汚れていたらお前を売り飛ばしてやる。まずは靴だ。早くしろ!!」
 ケセはそっと父親の靴を舐めさせられた。丁寧に、ケセは舐めた。まるで犬のようだとケセは思った。サフィアはお姫様。僕は犬。
「明日の朝、四時にシンシンリーに行く」
 父が宣言した。
その時になっても、ケセはシンシンリーに何の為行くのか知らなかった。
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